昨晩、夫と喧嘩した。
原因はいつもの通りだ。帰るといった時間に帰らない夫。冷めていく肉味噌麺。しなれていくサラダ。刻々と過ぎていく時間と沸々と煮えたぎっていく苛立ち。何度やってもあの時間が嫌いだ。夫は酒を止めてる。だから、連絡のない夕飯時にどこかで泥酔してるなんて事はない筈だ。だけど、ルーズな癖まで治る気配はない。それに。私の中のどこかは未だに夫の事を信じてくれない。「帰る。」とメールがあってからどれくらい経ったのだろう。ようやく帰宅した夫と完全に冷めた食事を頬張った。味なんて勿論どこかに消えた。せっかく作ったのにな。話しかけてくる夫を無視して食べ続けた。笑って話せるわけがないじゃん。あと何度これを繰り返したらいいのだろう。帰り道に友人に会ってしまって一杯。仕事の打ち合わせが入って午前様。夫の夕飯問題については今夜だけの話じゃない。だから、耐え忍んで食べてる。過去は過去なのだから。ガチャン。皿が大きくなった。箸を投げて夫はベッドへ去っていった。
「そこに愛があるんかな。」昨日、数年振りに電話した時に絵描きの健太郎さんが言った言葉。かっこよすぎて痺れた。健太郎さんが言ったのは、人への想いやりもそうだけど、自分を大切にしないとダメだって事だったんじゃないかと思った。「今をこの場所を人生を愛しましょうよ。」そういう言葉にも聞こえた。箸を投げられて、荒れたテーブルには愛が少しだってない、生ぬるい食事がどろっと皿に乗っているように見えた。可哀想な食事とは思えるのに、可哀想な私とは思えない。ただ苛立つ事しかいつも出来ない。
誰かを想うことも、誰かのために何かをしてあげる事も案外簡単だ。だけど、自分の人生を大事にするっていうのは難しい。自分から逃げないでそこに愛を持つ事も難しい。