ヌテラトースト

パン 17.10,2020

家のドアを開けると、張り替えたばかりの畳の匂いがした。久しぶりの家。ああ、いい香り。窓を開けて、掃除機をかける。石垣島とは全然違う風だな。冷たくて、少しひりひりする。ここの空気は未だ私には優しくない。現実に一気に戻ってしまった。

本当の事を言うと、今も寂しい。
どんなに酷い事をされようが、急にお酒に戻ってしまった夫に、この現実に、一生私は消化出来ないまま死んでいくんだろう。夫を嫌いにはなれない。夫を今でも好きだと思う。夫にお酒を呑ませた人を憎んでる。そんな下らない事を考えても意味が無い事なんてわかってるけれど、彼がいなければ。一日に何度も頭を過ぎる。彼が夫に大量にお酒を呑ませなければ。

飲み友達に作ってもらった会社の事を何度も聞いた。「家族で話そう。大事な事だから、何の会社か教えて。」夫は家で椅子に座る時間でさえ作らなかった。なんだか変わっていく自分から逃げ続けてるように見えた。ほんの数ヶ月前はソファーで肩を並べて毎日の様に一緒にテレビを見て、一緒に食事をしてた。今は違う夫が同じ言葉だけを放ってる。「俺は忙しんだよ!邪魔すんな、うざったいんだよ。」機嫌が悪い時は「お前ぶっ殺すよ。」って殴りかかってきた。ぶっ殺すっていう言葉は夫に会うまで誰かに言われた事は一度も無かったけど、この8年間でシャワーみたいに浴びた。初めて聞いた日は、私は殺されるの?って真剣に受け止めた。

この先も悲しみは癒えないと思う。だけど、仕方ない。心と身体が、東京を離れて元気を取り戻してきた。こういう事なんだ。もう元には戻れない。勘違いしてた。幸せだった頃の私に戻れる気がしてた。平穏だけを知ってる私がもうすぐ帰ってくる。違う、これからは、この傷と一緒に生きていくって事なんだ。胸がえぐられるような気持ちも、人に裏切られた悲しみも、人に手をあげられた苦しみも、男が大声で「ぶっ殺すよ。」っていうのも、全部、私の中のまま。

今日は姉の息子マルコスの誕生日。ヌテラを見るとマルコスを思い出す。ヌテラ狂の甥。石垣島のホテルで小さいパックになってるヌテラを見つけて、嬉しくなって幾つか持って帰ってきた。甘い物はそんなに好きじゃないけど、朝食はヌテラトースト。彼のダディ、ニコちゃんが死ぬ間際に「お前がこれからはボスだからな。」マルコスにそう言ったって聞いた。今日で11才になったマルコス。今、彼の心のどこにその言葉はいるんだろう。お誕生日おめでとう、大好きだよ。