ヌテラトースト

パン 17.10,2020

我が家のドアを開けると、張り替えたばかりの畳の匂いがした。久しぶりの家。ああ、いい香り。窓を開けて、掃除機をかける。石垣島とは全然違う風だな。冷たくて、少しひりひりする。ここの空気は未だ私には優しくない。現実に一気に戻ってしまった。

本当の事を言うと、今も寂しい。
どんなに酷い事をされようが、急にお酒に戻ってしまった夫に、この現実に、一生私は消化出来ないまま死んでいくんだろう。夫を嫌いにはなれない。夫を今でも好きだと思う。夫にお酒を呑ませた人を憎んでる。そんな下らない事を考えても意味が無い事なんてわかってるけれど、彼がいなければ。一日に何度も頭を過ぎる。彼が夫に大量にお酒を呑ませなければ。

夫には本当に酷い事をされた。朝昼と構わずに大声で喚き散らして、髪を掴まれたり、首をしめられたり、ここ最近は殴りかかってくる夫を呆然と見ている私がいた。嘘みたいな話だけど、現実だ。夫は病気だから仕方ない。いつも心でそういい聞かせた。彼は苦しんでるって。

家でご飯を作り、待っても、待っても、夫は帰らない。また女と遊んでる。また酒。また嘘をついてる。嘘だってわかっても責めない。夫は病気だから。仕方ないんだ。

飲み友達に作ってもらった会社の事を何度も聞いた。「家族で話そう。大事な事だから、何の会社か教えて。」夫は家で椅子に座る時間でさえ作らなかった。きっとそんな時間だって怖かったのかもしれない。変わっていく自分から逃げ続けてるように見えた。「俺は忙しんだよ!邪魔すんな、うざったいんだよ。」いつも同じ言葉。機嫌が特に悪い時は「お前ぶっ殺すよ。」って殴りかかってきた。2年前もそうだった。夫は全然違う夫になる。優しくて気弱で、物腰の優しい夫じゃない。私しか知らない夫になる。ため息しか出ない毎日。永遠に続く真っ暗なトンネルを走ってるみたいだった。夏が暑かったのかどうかも覚えてない。

時々、こんな事を言う人がいる。
「大丈夫?DVとかされている女性みたいだよ。」何だか馬鹿にされているような気持ちになる。わからないくせにって、喉のすれすれまで出かけて、いつも口を噤んだ。だって、わかるわけが無い。林檎を見て、食べもせずに「真っ赤で甘い林檎だね。」っていう具合に。

誰だって、私だって同じ。いつも考えてる。何が正しいか正しくないか。何が自分にとって良いか、悪いか。今、ここが、いつだって答えになる事もわかってる。わかってる。わかってるから、いつも、目の前で現実を見てきた。想像なんかはしない。この人が悪くなるだろうなんて起こってもいない未来を想像しない。それは夫がこれから選ぶ事だから。そう決めて隣にいた。

この先も悲しみは癒えないと思う。だけど、仕方ない。心と身体が、東京を離れて元気を取り戻してきた。こういう事なんだ。もう元には戻れない。勘違いしてた。幸せだった頃の私に戻れる気がしてた。平穏だけを知ってる私がもうすぐ帰ってくる。違う、これからは、心についた傷と一緒に生きていくって事なんだ。胸がえぐられるような気持ちも、人に裏切られた悲しみも、人に手をあげられた苦しみも、全部、私の中のまま。

今日は姉の息子マルコスの誕生日。ヌテラを見るとマルコスを思い出す。あの子はヌテラ狂だから。石垣島のホテルで小さいパックになってるヌテラを見つけて、嬉しくなって幾つか持って帰ってきた。甘い物はそんなに好きじゃないけど、朝食はヌテラトースト。彼のダディ、ニコちゃんが死ぬ間際に「お前がこれからはボスだからな。」マルコスにそう言ったって聞いた。今日で11才になったマルコス。今、彼の心のどこにその言葉はいるんだろう。お誕生日おめでとう、大好きだよ。