今日やっと動物倫理学の本を読み終えた。意気揚々と読み始めて、途中、少し涙を流したりしながら進んだものの、宗教と動物っていうテーマの所に数日時間がかかって、今日こそ無理だと決めた。そして、さっとワープ。気持ちよく着地出来る所を見つけて読み始め、読み終えた。宗教の所はキリスト教と仏教に照らし合わせて解釈を行なっていく所だけど、キリスト教も仏教もさほど理解が無いからちんぷんかんぷんだったんだと思う。だから、そもそも読まなくて良かった。
最後の方でおかしな事が書いてあった。「動物に優しい人は人にも優しい。その逆も然りで、人に優しい人は動物にも優しい。」散々、何百頁に渡って真面目な話をしてきた所で最後にこんな言葉を見て拍子抜けした。そこに極端な事例として、神戸連続児童殺傷事件の容疑者が動物虐待していた事が記されていた。けど、。幾つか私の知ってる経験を思い返したらその通りかも。私の知っている男がよくテコにしていた事は間違いなく虐待だった。テコが吠えると大声で「煩い!」と叫び、思いっきりに床に踵を落としてガタンともの凄い音を立ててテコを怖がらせた。テコはその突然の衝撃に尻尾を股の間に挟んでサッと後ずさりする。お酒が入り暴れた延長で叩いたり吹っ飛ばした事よりもずっと違和感のある光景だった。けれどいつしか日常にそれは溶けていった。
「ぶっ殺すぞ。」男の大声と共に思いっきりに放たれた拳は私の顔の直前でピタリと止まる事を私は覚えた。頭を叩かれることがあっても、首を締められる事はあっても、顔は絶対に殴らない。彼がそうするには理由があった。テコと同じ。「どうしてお酒をまた呑んだの?」「どうして嘘をつくの?」と、私が彼に吠えたから。動物でも人間でも、自分を守る為に相手を黙らせる術として強烈な方法で威嚇する。これが彼の理由と行動。そして、それは8年間、家の中だけ。私とテコにしかやらなかった。身体よりも胸が痛い事の方がずっと多い日々が続くと、いつしかその痛みは痣が出来るよりずっと早くに消えた。
「彼と私が一緒にいなくなったら、彼は大変になるね。」と言った人がいたけど、現実は違う。彼はそんなに馬鹿じゃない。それに、あの病はそんなにシンプルでもない。もし咎められる日が来るとしたら、お金の事とか、彼の苦手とする所なんじゃないかなって思う。彼が心を許した人だけが知れる彼の本心は絶対に世界には見せない。
神戸の事件の詳細をどうしてか無性に知りたくなってネットで調べた。こういう気持ちって何て表現したらいいんだろう。全くわからないけれど、私が見てきた異様な光景と少しだけ近い場所にある気がした。
脳科学者の人の話で、自分は気づいているのに、あの人は気づかなくて、不快な思いをする事ってありますよね?動物に例えるなら紫外線。人間は見えないんですよね。けど、蝶は見えるんです。脳の感覚機能は現実に起こってる事を全て見せてくれているわけじゃないんです。ほんの一部に過ぎないんですよって話だった。前と今は同じ世界なのに、気づけば真っ白で美しかった筈の壁がポロポロとペンキが剥がれ落ちてくるみたいに、何かがどんどんと見えてくる。それは彼の事だけじゃなくて、色々。そして、その先を見たいっていう欲求も少しずつ膨らんでいく。