和風クリームシチュー

洋食 07.3,2022

朝に納品を済ませて、午後は病院。ブライダルチェックを気軽に受けに行った筈だったのにいつの間にか不妊治療みたいな検査が始まっていた1ヶ月ちょっと。ようやく終わると思うとすごく嬉しかった。私が嫌なのは先生が嫌いだったこと。病院で決められてる小さなメモ帳みたいなノートを忘れると先生はイラっとした感じになるし、子供が欲しいのか迷ってるのに「急ぎましょう!」ばっかりだし、結局フーナーテストというセックスのタイミングをはかるものをやってみたけど検査自体失敗に終わったそうだし、お金もかかるし、毎度会う度に先生はうーんって感じで深刻に渋い顔をしているし、何だかとにかく楽しくない病院だった。注射が下手くそな年配の看護師のおばちゃんは「まぁまぁ年齢の事はあるけど、この感じなら大丈夫よ。」そんな掛け声の方がずっと気分が良かった。ああ、ようやく終わった。

「先生が嫌だったよ。」周ちゃんにぽろっとこぼすと、「まぁ、先生も色々と言われるだろうし、ちょっと過剰に慎重になるんじゃないかな。」って。けど、「あの先生といると私はどんどん不安な気持ちになるよ。」って伝えたら黙った。結局、身体を触られて、注射したり、何かよくわからない検査をするのは私自身だ。先生がリスクヘッジの為にあの感じだったとしても、正直私には関係がない。だって不安ばかりが募る一方で、全然楽しくなかったから。「ああいう場所だからね。」って周ちゃんは言ったけれど、ああいう場所とはどういう事だ!赤ちゃんが欲しいと思う気持ちは別にネガティブでも何でもないし、毎回どんよりした気持ちで受ける必要だってない。病院で不妊治療をする事がネガティブだと受け止めるのは、本人ではなく周りだなんておかしな話。そういう勝手な想像は嫌いだ。世の中は全てが自分の思い通りになんていくわけがないのだし、ただそれだけの事で幸福と不幸のどちらかにカテゴライズするなんて、無性に腹がたって怒った。周ちゃんは申し訳なさそうに「そうだね。」って言った。周ちゃんはいつも私がどんなに怒っても怒らない。

「周ちゃん、周ちゃんってどうして怒らないの?」
私は奴隷だった時代が長かった。家族は悪くないと決めてる。誰にも言えない苦しい奴隷時代があった。大人になり家を出て、結婚してから再来した別の奴隷ライフを受け入れたのと、過去の私は密接に関係してるのを知ってる。私は奴隷になる許容をしっかりと持ち備えていたから。

「前にもちょっと話したけど、。中学校の時に暴力とかイジメがあったんだよね。怒ったこともあったけど、怒ると想像以上に自分へのダメージも大きくて、そのうちに怒れなくなったんだよ、、。」しばらく周ちゃんは話し続けた。川底にあるヘドロみたいに触れられないものを救ってはその中をやみくもに探してるみたい。私には何も見えないよ。なんて言葉をかけていいのかわからなかったけど、周ちゃんは私に訴え続けてた。その痛みがどんな痛みなのか全く想像がつかなかった。

「周ちゃん、私は離婚してから怒るようになったんだよ。ずっと怖い人が苦手だったし、怒れなかったよ。ずっと言えなくて我慢してた。」だから。だからもう私は我慢しない。不当な扱いを受けたり、酷い事をされたり、なんだか本当は悲しくても、辛くても、苦しくても、それでも私さえ我慢すれば世界が回るならいいなんて事はない。私でも私以外でも同じ。そんな事しなくたって世界はよく回れる。自分も誰かも犠牲にしたくない。そんな現実はもう見たくない。絶対に見たくない。

夜だけがどんどん更けていく。「だから、俺はよしみを尊敬してるんだよ。何だか愛の告白みたいになってるね。よしみはいつだって今に向き合おうとしてる。俺もそうなりたいけど、だから、すごく尊敬してるんだよ。」なんだろう。周ちゃんの言葉がすんなりと聞こえてこない。

病院にちょっと早く着いて、近くのファミマに保険の引き落としで寄った。自動ドアが開いてファミマのチャイムが鳴る。あ、あれ。怖い。一瞬でそこは違う場所になった。元夫が最悪だった時間が一瞬でやってきた。すごく久しぶり。全身が硬直してる。あ、多分あれだ。昨日、引越しの荷物をまとめてる時に元夫の写真を見つけたからだ。ああ、やっちゃった。吐き気なのか目眩なのか、悪寒、圧迫、動悸。それを説明するのにピタリとハマる言葉が見つからない。とにかく曖昧に怖いとしか言えない。ここに居るだけなのに凄くどうしようもなく怖くなる。直ぐに思った。大丈夫だし、今は違う。ああ、あの過去は本当に苦しかったんだ。苦しみが完全に過去から来たんだってわかった。うん、もうあの場所じゃない。あれから、中目黒も祐天寺も行かなくなった。行きたい店があっても行かない。もう行かない。それでいい。怖いから行かない。

周ちゃんが怒れなくなった過去。怒れない。それでいいと思う。一生そのままでいいんじゃないかな。今日を生きるために見つけた答えがそれならそれが一番いい。逃げたいなら逃げて、見たくないなら目をつぶって、それで怖いとか苦しみが減るのなら、今日が今が笑えているのなら、最高だと思う。よくやった。それって、十分に強く生きているって事なんじゃ無いかなと思う。生きている事の望みって、お金でも愛でも頑張る事でもなくて、ただ今を安心して生きていられるかなんじゃないかな。周ちゃんはもう2度と怒らなくていい。私は怒りたいから怒ってるだけ。それぞれのやり方で今を安心して生きたらいいよ。