
朝一番で梃子の病院。今日は退院日。支度をして急いででかけた。病院に着くと梃子が鳴いてる声が聞こえる。呼ばれて診察室へ行くと、今は痛み止めが効いてるからなのか、迎えにきた私達に興奮しているのか、想像していたよりずっと元気そうだった。静かに毛布に包んで帰宅した。久しぶりの家に嬉しそうな梃子。だけど、時間が経てば経つほどに辛そうだった。
一階の和室に布団を敷いて、周ちゃんと交代で梃子の側にいてあげる事にした。傷口の所為で身体を横に出来ないみたいで苦しそうに寝ていた。昨晩に周ちゃんに相談した。梃子の傷が塞ぐまで皆で和室で寝ようって。畳に大きな布団。修学旅行みたいで少し楽しい。「私の妊娠の時みたいだね。」周ちゃんに言った。何だか数ヶ月前の生活を思い出した。あの時も絶対安静で布団から動けなかった。まるでずっと昔のことみたい。
周ちゃんは今日は代休をとってくれた。午後からは借りたレンタカーを返しに行って、新しい車の車庫証明や保険の手配をしてくれてる。包帯に滲んだ血も、痛くて呻く声も、私達は一緒にいてあげる事しか出来ないけど、ただ身体に触れているだけでも、安心して眠りについてくれるようだった。日常を送りながらも、ふたりともいつもの1.5倍は明るかった。明るくいようと努めた。
早い夕方から布団で映画を見ることにした。Don’t look upというNetflix限定のブラピ主演の映画。テンポのいいアメリカ英語やアメリカらしい食事や店や家、雑でオーバー気味なリアクション。アメリカっていう文化がやっぱり好きだ。いま直ぐにL.Aに行きたくなった。周ちゃんは何が好きなのかわからないけど、アメリカ映画は好きみたいだった。何となくそこは合うんだなと思った。今っぽくていい映画。地球滅亡は無いけど、なんだか自分の身の周りにあるような話だ。売れたいの、有名になりたいの、お金が欲しい、理想の生活がしたい、自分じゃない誰かになりたいと欲望の虜となる人々と、欲望ではないものを望む人々。けど、結局どちらの生き方も間違ってない。どっちだって人間らしい。欲望が無かったら生きていけないし、欲望ばかりでも生きるのが苦しくなる。
映画の最期、地球滅亡の直前に「僕たちは沢山を持っていたんだ。」とブラピが言った。大切な人達と最後の晩餐を囲むシーン。生き方に正解なんてものは無いと思うけれど、欲しがっているばかりの人を見かけると、何故か寂しそうに見える。きっと私もそういう人だったからだろう。欲しいものばかりで、そうじゃないこと。例えば、自分の人生を大切にするとか、目の前にいる人の人生を大切にするとか、今という時間を大事にすること。そういった当たり前に出来そうな事がすっぽりと抜け落ちたように出来なかった。稼がなきゃ、とにかく働いて立派にならなきゃ、楽しいとか楽しくないとか関係ない。一つでも多くの仕事を取って、誰よりも多くの写真を撮らなきゃ。休みなんて要らないし、ストレスが溜まったら新宿の伊勢丹に仕事帰りに寄って好きなものを買ったらいい。とにかく沢山の情報を詰め込んで、話題の料理本を全てチェックして。私は強いから大丈夫。我慢出来るし、努力は報われるから。
映画は麦酒とポテチで始めて、途中で夕飯を食べながら見た。台湾風のスペアリブの煮物の丼、麺なしフォー、蕪のトムヤムサラダ。周ちゃんは煮物が気に入ったみたいで嬉しそうに食べていた。アニスの香りが甘くて、味の染み込んだ大根も最高だった。映画を見終わってから、周ちゃんからのサプライズ。昼に大きなケーキ箱を抱えて帰宅したのは知ってたけど何も言わなかった。こないだ誕生日ケーキが食べたいと言ったのを覚えていてくれたみたいだった。それに来週は梃子の誕生日。
キッチンからローソクが小さく光るお盆を持って歩いてきた。一つは丸い大きなチーズケーキにローソクが4本並び、真ん中に私の名前が入ったチョコレートのプレートがのってる。もう一つはクリームがたっぷり入ったシュークリーム。こっちも”テコおたんじょうびおめでとう”と書いたチョコレートプレートがのってる。梃子は人生初のチョコレートプレートだ。あまりに可愛くて、ぎゅぅっと胸が熱くなった。梃子の人生はきっと犬世界の中では波乱万丈な方だと思う。あっちこっちと引っ越す主人の所為で寝床がひっきりなしに変わり、一度や二度じゃない今回で4回目の手術。主人が直ぐに恋に堕ちるから、見知らぬ男とは2回住んで、1回旅行に行った。やっと家族になったと思った男とは離婚。せっかく懐いていたのに、ある日に突然さよならも言わずに消えた。何処へ消えたのかも知らない。犬は帰ってこない主人に対して、自分は捨てられたと感じると何かで読んだ事がある。本当に散々だったと思う。最近また甘えん坊になった梃子。周ちゃんにかまってだの、おやつを頂戴だのって我儘ばかり言ってる。ようやくだ。梃子はようやく落ち着いて暮らしてる。私もそう。この家族にこの家にどっぷりと浸かり、平和で安全に暮らしてる。来週に13歳。人間だと大分おばあちゃん。80歳くらいとかかな。もう、これ以上苦しい思いも哀しい思いもさせたくない。死ぬまでずっと幸せにしてあげたい。このまま、このままの今日をずっとずっと死ぬまで。