
15時に経堂駅でねぎと待ち合わせ。大学の時、好きなことをして生きたいと就職もせずにカフェでバイトしてた仲間のひとりだ。同じぐらいの歳の女は今、どんなことを考え、どんな風に未来を見ているんだろう。もがいてばかりいる私の日々は間違ってるんじゃないか。私の正解じゃなくて、誰かの正解も聞いてみたいと思った。
話したいことは山ほどあるし、聞きたいことも、聞いて欲しいことだって。だけど、話も途中で石井ちゃんの名前がでてから、目が合った瞬間に私たちの顔がみるみるとぐちゃぐちゃになって、気づいたら泣いていた。「ごめん。」喉を詰まらせ、言葉にならずに謝りながらも話し続けた。
私たち、きっと、ずっとこの話をしたかったんだろう。3年ぐらい経った気がする。石井ちゃんがこの世からいなくなって、時々、よく遊んだ中目の交差点で、新宿の街角でも、私のずっと前をあの細い肩が、大きなイヤリングを揺らして歩いているような気がした。「病気のこと、言わないでって言われてたから、ずっと言えなくて。」ねぎは早くから知っていたんだそうだ。
それに、ねぎは石井ちゃんの最期の時間も会いに行ったと聞いた。ぎゅっと喉の奥が抑えられるようで苦しかった。これから死ぬことが決まった人を目の前で看取ること。実際のその光景を見ることと、出来事を想像することは180度違う。世界は、美しいことも見せてくれるけれど、時に、そうじゃないことを私たちに強いることもある。それは、忘れたくても強く掴んで離してくれない。
今日は色々な話がしたかった。写真の仕事のことや大学のこと、今がその間で苦しいことも。だけど、石井ちゃんの話をしたら、なんだかどうでもいいような気がした。だって、人は死ぬんだもの。死ぬために生きてるわけじゃない。いつか死んで全部消えちゃうから、その前に楽しみたい。だから、生きてるんじゃないか。
経堂のカフェで向かい合って、空のコーヒーカップを目の前にして座る私たちは今、無力だ。だって、人は存在するかしないかで、今、この物理主義な世界の中で、会えない友人に私たちができることは一つだってない。
泣いても悲しんでも後悔しても、願っても、友人に触れることは一生できない。これは美しい思い出じゃない。いい子だった。みんなに愛されてた。それだけでもない。早すぎるとか、後悔したって仕方がない。この死は、死ぬことを教えてくれたんだった。
今日は、大事なことを思い出した。