人は偏ってる。それが偏っていればいるほどに魅力的にも見えるし、個性と称されデコボコと押されたり凹んだりした部分の所為で上手く前へ転がっていけないボールのようにも見える。大場さんから感じた都市への幻想や憧れは、未来を変える原動力になるし、それが強固なものとして形になれば誰かを揺さぶる何かへも変化する。理由は何にせよ、人の想いは、また人を動かす。
東京や関東出身の友人がここを離れていく理由もきっと同じだ。私もそう。若い頃は海外へ行きまくった。ここじゃないどこかに未来があるような気がしてならなかった。結局、東京で落ち着いてしまった時は、もう私はいいやと半諦めみたいなものも受け入れたように思う。
どうしてなのか、都市に限っては人が多ければ多いほどに正解が詰まってるように見える。それに、価値があるような錯覚にも陥る。世界は多数決で出来ているわけじゃないのだし、本当のところ大体の人はとっくに気づいてるはず。事のよしあしはインスタみたいなものでチェックしても意味がないことを。
だけど人が社会的な動物である以上、仕方がない事だとも思う。自分がどこに立っているかを知りたいし、出来るだけいい場所に身を置きたい。いい人間で価値のあるものでありたい。それって、人が決めるものでしょ。みたいに言う人もいるだろうけど。手っ取り早く一刻も早く身の安全を確保するにはSNSの恩恵は待ってましたと言わんばかりに沢山の人の心にフィットしたのは、皆が求めているからであって必要なものだったんだと思う。
今夜は大場さん、編集の成田さんと3人で遅い新年会。私よりも少し早く成田さんは大場さんの事務所に到着したようだった。いつもの通りで大場さんはよく喋ってる。大場さんの生い立ちや、映像のこと。それから、作品の話になった。本当はその心のうちを、作品のもっと前にある大場さんの話を聞きたかったけれど、途中で聞くのをやめた。そこは本人でさえ立ち入りたく無い場所のように見えた。
事務所を出てカレーを食べに行こうとなった。撮影でよく行くようになった日本橋は、気づけば小さな路地も何となくわかる。夜に歩くことは初めてだったかもしれない。ずっと生活圏だった渋谷だとか、買い物へ行く新宿とは違う夜。久しぶりに歩く東京の夜はなんだか気持ちが良かった。
丁寧に街の話を説明してくれていた大場さんは交差点で信号を待っている時に不意に私のことを褒めてくれた。「よしみさんのいいところは、自分で料理を作ってるところですよね。」嬉しかったけど、急にどうしてそんな事を言い始めたのかよくわからなかった。私はつまらない顔でもしていたのだろうか。
都市から田舎へ生活の環境を変えた事で、生活だけではなく人生全体の考え方を180度変えている途中だという話をした。大場さんは賢い。ふんわりと話しただけで、直ぐにそれがどういうことか理解してくれた。私の少ない言葉を上手に言葉をすくってつなげてくれた。自給自足。フードマイルをベースとした考えに近い。人生における色々の自給率をどこまであげられるか。
東京でオーガニックな生活を送ることに後ろめたさを感じていた頃の私はがむしゃらに働いていた。写真を撮れば撮るほどに通帳に溜まっていくお金を見て生産率が高いと信じ切っていたけど、入ってくるお金が大きくなればなるほどに出ていくお金も大きくなり、ただの真空管みたいだなとも感じていた。
田舎暮らしで始めた地産地消という概念から生きるサイクルを学んでみると、私が欲しい物は稼いだお金や失った時間と交換するのではなくて、全体的な量さえ把握すれば自分で出来る限り作ってみたらいいんだと気づいた。写真を撮ること一つにしてもそう。どんな仕事も全部私に下さいじゃなくていい。何がどれだけ食べたいかを理解すると、おのずと生活に必要なお金の量がわかる。そしたら自分に必要な仕事だけをすればいい。そうして余った時間は、私がやりたかった別のこと、例えば大学の勉強に当てられるし、料理をゆっくり作る時間とか、この土地をもっと掘ってみるとか別の時間に使える。そこで得た学びや喜びは私の糧となり、また写真に還元される。私の自給率が上がれば、さらには誰かにも還元できる。
面白いことで、働く量を減らして時間を増やすと、無駄に動く時間が減ってコストダウンへとつながった。結果、がむしゃらに働いていた時も今も預貯金は変わらない。ついでに、よくわからない苛立ちや目の下のクマ、毎月やってきたPMSも何処かへ消えた。
唯一の心残りは友達が減っていくことだった。
「必要な人だけになっていいんじゃないですか?」大場さんが言った。
前にいまむちゃんに話した時も同じようなことを言ってた。「まぁ。そうですかね。」そう簡単に友達とサヨナラできない自分がいたけど、ようやくそれについても理解出来るようになった。今が十分なら必要以上に欲さなくてもいいってこと。それに、何かに依存すれば依存するほどに、それは足かせになっていく。離れた友人とはこのままもう会わない人もいるかもしないけど、同じような考えを持つ友人であればそう遠くはない未来に会える気がした。友達はすごく大切な存在だけど、足並み揃えて人生を歩む必要なんてない。
成田さんからは恋の話を聞いた。悩む成田さんは相変わらずで好きだなと思った。眉毛をへの字にしてる姿を見ると側にいてあげたくなる。大場さんはいつもの通りで、そんな成田さんに真剣にアドバイスをしていた。そんな大場さんの心根は触れる度に感心する。
大場さんと私は歳も近いし互いにバツイチ。そのアドバイスには大きく頷くこともあったけれど、心の底では愛なんてものはこの世に無いのになと思っていた。だって、愛は作るものであって、愛は信じるものじゃない。エーリッヒフロムが愛は技術だと愛に悩める多くの人類に愛の地雷を仕掛けたように。なかなか最悪な離婚を経験した周ちゃんの同僚だった高橋くんや私が口を揃えてフロムに賛同したのは、一生愛すると決めた人と数年後には離婚を選ぶしかなかったから。
いい恋なんて特別に求めなくていいと思う。最低な男だとか最低な女と恋を楽しんで、別れたらいい。共犯者となってドラマチックな毎日に溺れて傷つくのは案外楽しい。夜中の12時に呼び出されたら、お気に入りの服を着て会いに行ったらいい。明日の仕事なんて関係ない。昨日と同じ服を来てどうどうと会社に行けばいいし、鳴らないメールを待ったっていい。 私はそれが恋だとか愛だと思う。平凡な彼氏は安心で安全で誰しもがいい男だねと言ってくれるけれど、だいたい飽きるし、飽きるような相手と結婚するほど人生を退屈にしたくない。
若い時は好きな男の一言で今日が最悪になったり最高になったり、本当に胸がちぎれちゃうと思うような事も沢山あったけど、仕事が手につかないとか、やけ酒するしかないとか、苦しくて苦しくて泣いても怒ってもどうにもならなかったけど、結局、その痛みで死ぬ事は一度だってなかった。そうして大人になった今は傷ついたことも傷つけたことも、どういうわけか私の一部となってる。
沢山恋をしてきっと良かった。しょうもない男と寝たことも後悔してないし、振り回した男に今でも申し訳ないと幸福を願ったりとかも全て。最悪な恋も最高の恋も同じ棚の引き出しにぎゅうぎゅうにしまわれてる。
私を半分殺しかけた夫に対してだってそう。最近では少しだけそう思えるようになってきた。