春みたい。代々木公園の西口近くにあるリトルナップの前に10時に待ち合わせをした。まさか、珈琲がこんなにもブレイクするなんて、あの小さな珈琲屋に休日の朝からこんなにもは人が珈琲をめがけてやってくるなんて、時代ってのは、わからないものだ。
リトルナップに時々行ってたのは、遥か昔のことで、まだ20代?だった気がする。今日とは全然ちがう。小さな店はガラガラで、ひっそりと店があるのがよかった。重たい感じのドアが印象的で、変に厳かだけど、ちっちゃくて可愛い女性がちゃきちゃきと働いてた。あとで、それは知り合いのフォトグラファーの奥さんで、しばらくして二人は離婚したんだとも聞いた。
田村さんに会うのは1年ぶりだ。代々木公園も1年ぶりくらいだろうか。NHKで働いていたときに、よくバラを見にきていた場所だ。目的はバラだったけれど、理由はサボるため。いつも、暇そうな友達に “光合成してる”とか、”今夜なにしてる”とか、どうでもいいメールをしてた場所だ。今日は、そのベンチに田村さんと腰掛けた。確か、あの時はいつもコンタックスのAriaを持ってた。NHKヘ行く鞄の中も、サボりにいく代々木公園へも。そして、サボりながらぼうぼうに生えるバラを撮った。
「感じることに意味があると思います。」
話始めて直ぐに話してくれた言葉は、少し突拍子もなくて、妙に惹かれた。
田村さんは、昔、ハッセルで作品を撮ってたから、わたしも一時はハッセルだったし、なんとなく近いとゆうか、わかってくれてると勝手にいつも思う。もし、そうじゃなくても、多分目指してる場所は同じとゆうか。だから、異なっても、安心して話せる。
コントロールしたくない。だから、今、最近の写真は、とにかくグラデーションやラチチュードみたいなものを薄めて中和して世界に馴染むように、せめてもの想いでやってる、、仕事でもなんでもそうしてる。
強いこと、印象で引っ張るものが、断定的な写真行為そのものが、差別みたいに見えてちょっと辛い。人の写真見て、痛いとすら思う。ださい?なんかいやだ。きらい。むかついてくる。私のもってる幼稚な言葉を沢山並べると田村さんは、よしみさんって面白いことを言うんですねって、笑ってた。
けど、わかるって。田村さんはコロナが来て、写真が撮れなくなったのだそう。具体的な理由はわからないけど、断定される世界に違和感を感じるようになっちゃったって。だから、同じじゃないけどわかるって。
写真はやってないけど、別の文脈で、ナラティブっていう物語を紡ぐ心理療法を学んでる。写真じゃないけど、やってることは同じかもしれないとも言ってた。その言葉はよくわかった。
ナラティブは言う。世界には真実性?などは、必要ないって。それは、夢想や幻想みたいなことではなくて、勿論、スピリチュアルともぜんぜん違う。答えは、人の心身に宿っているものだと、確信してる。
ちょっとジェンドリンって心理学者のフォーカシングに近い気がした。誰しもが持つ、感覚機能についての話だ。もっと言えば、甲状腺機能にも近い気がする。あまりに大雑把な言い方だけど。私たちの体は、転んで擦りむいて血がでても、その血はかたまって、瘡蓋になって、また新しい皮膚が作られる。この機能は体も心も同じ。心は脳だから。そして体だからって話だ。
「けど、写真って気持ちがいいですよね。」なんていうか、考えないで撮る行為そのものが、充足感に満たされる?いや、水が注がれるみたいに、すいすいと世界を泳げるような。目一杯に気持ちがよくなって溢れていけるような。十分に満たされる。瑞々しくなれる。
「うん。わかる。」田村さんが言った。嬉しそうな顔をしてた。
そう、。写真は気持ちがいい。気持ちが一杯になれるんだった。世界の面倒に巻き込まれることなく十分になってもいいもの。
月末に同じ写真仲間の鹿巣さんの個展へいく約束をした。鹿巣さんは、海外のアートブックフェアに参加したり、KYOTOGRAPHIEで展示したり、ちっちゃくて変な女の子だったのに、いつしか立派な写真家になった。今、きっと、あの子は瑞々しくて一杯だ。
田村さんと話せてよかった。