
いまむちゃんはいつもそうだ。約束っていうのは決めないで欲しいのに、曖昧にしてるのに、「何時?」とか、「どこ?」とか、ひつこく連絡がくる。あの人は優しいから、強くは言ってこないけれど、苛々する。勿論、悪いのは私かもしれない。けど、仕方ないよ。だって、決められると窮屈でちょっと苦しくなってしまうから。それで、万一、逃げ出してしまったら、と考えたり、それで嫌な想いをさせてしまったらって思うと、約束が嫌いになる。
久しぶりにトロワ・シャンブルに入ると、若い子で店内はぎゅうぎゅうだった。小さな声で「こういう店だっけ。」みたいな事をいまむちゃんに聞いた。確か、ここは、喫茶店が好きな女の子やおじさん達がいて、カウンターは常連そうな人が座ってた気がする。不思議な感じだった。まるで、昭和をコンセプトに作られた喫茶店みたい。全てがレプリカのよう。
最近の私は特に、口から出てくる全てが私をダメにするようにさえ思う。勿論、大学のせいなのだけど、全てがだめだめな気がしてならない。2年間死ぬほど勉強しただけなのに、世界が広くて怖いと思うようになった。
セオリーに則って写真を撮ることに違和感?いや、後ろめたさみたいなものや、違和感をトレードしてまで、お金や地位を得たくないと、頭でっかちに、潔癖になった。飄々と生きてたら良かったのに。適当に写真をやってたわけじゃないけど、無責任だった。けど、ある程度の無責任さは社会を生きる上で必要なことだ。
責任をとりたいと思うようになったのか、逃げたくないと思うようになったのか、いつも笑ってばかりいるいまむちゃんとの会話も、妙にアートの話なんかして、馬鹿だった。なんで作ってる?なんて質問をして、きちんと説明もできない私の返答も、全てが今の私な感じでぐちゃぐちゃだ。
「別に作ってる意味なんて要らなくない?」と、私が言ったのは、逆の話だ。定義するという事がどういう事なのか、感想文書くのも、日記を書くのも自由だけど、そうじゃない領域に出たいと思うときに、どうやって言い切るのかって事に、「感じてるから」とか、「そうだと思うから」は、あまりに不平等だし、暴力的に見える。あの本に書いてあったから、や、あの偉い人が言ってたから、も同様に。
資本主義の話と写真の話をくっつけたから悪かったのかもしれない。いまむちゃんの顔は曇ってた。そんなに頑なに、みたいなことを言ってた気もする。その通りだと思う。多分、より、前よりも専門的なことをやりたくなって、きっと、いまは、その道の途中で腰掛けてお喋りしてるから悪い。前のように中身のない会話を続けている方がずっと楽しかった。
また、来月にでもお茶しよう。いまむちゃんは好きな子だから。苛々するけど、仲がいい。
帰り道は川を見ながら帰った。未来がわからなくて怖い。それが不明瞭なことであればあるほどに、誰かや何かっぽくなくて、ここだけのものであればあるほどに、怖い。だけど、傷ついても、淡々とやろう。淡々と。