
大学院に入ってから4ヶ月が経った。辛い。
忙しいこともあるけど、それよりも自分の出来ないことが可視化されていくようで辛い。周りのみんなが1回で出来ることが、私は3回やっても出来ない。別に今に始まったことじゃない。人の3倍やる。これは、子どもの頃に自分の中で決めたルールだ。3倍やると普通になれる。別に、苦しいと思ったことはない。だって、みんなと同じがいいもの。けど、いや、だった筈なのに、ここにきて、急に苦しくなってきている。
授業はだいたいついていけない。毎日毎日、出来ないの連続は、出来ないレッテルを毎秒毎分貼られているようできつい。けど、一つだけ出来ることももある。心の声を話す授業だ。
言語理解が早い人は、言葉を上手に扱う割に声が見えない。それは、参考書の、辞書の、何ページに書いてあることなのだろうと直ぐに察しがつく。情報には早く辿りつくけれど、その人の声がない。悲しいとか苦しいとか、嬉しいとか、その場所から見える景色がどうだとか、、彼や彼女の中には決して立ち入らない感じにもどかしさを感じる。
心は脳だということで、脳の勉強もしている。そこでの表現を借りるならば、人には得意な事と得意じゃないことがあって、身長や足のサイズと同じように、その大きさは色々だ。そして、酷なことに、それが社会に適応していれば、良しとされるし、適応されていなければ、悪いと判断されるのが今の世界の一つの基準となっている。
早く写真に帰りたいなと思う。本当に、私はここで学ぶ意味があるのだろうかと疑ったりもしてる。自分が適応か不適応のどっちの側に立って生きてきたのか?といえば、ほぼ不適応だ。会社は無理、集団も無理、学校の勉強は読めないから無理、あげたらキリがない。これまでだって薄々は気づいていたけど、残念ながら、ここは、社会であり私が生きる世界だ。
わざわざ受験までして専門的に心を扱う場所にきたけど、結局、いづらさは拭いきれない。誰が、とか、何が、じゃなくて。
だけど、写真と同じように考えるならばこれは希望になることも知ってる。先週?先々週?か、ミオちゃんに下北で早い夕飯を食べた時に「写真から離れてる感じ?」と聞かれて、「違う」と答えた。「逆、逆」って。
正直、深まっている。確かに、商業写真からは離れてる。けど、写真には近づいてる。見える、感じる、気づく、存在する、存在しない?どこに、いつの、ここに?
ソフィー・カルのブラインドっていう写真集があるけど、見えるいことだけが写真じゃない。写真は存在そのものを示すことができる。だけど、幻想や幻覚じゃないから、写る。
プロダクトを、モデルを、料理を、目にみえるものを品良くトレースすることも写真。けど、写真はそれだけじゃないから面白い。