
ホタルイカと春菊のスパゲッティー


目覚ましと同時くらいに起きたと思う。スッキリと目覚めた。静かにゆっくりと起き上がってみると、腰がすっとベッドから離れた。あ、大分良くなってる。恐る恐る階段を降りて支度を始める。ちょっとまだ痛いけれど、昨日よりはずっといい。窓から登り始めた陽がうっすらとピンクオレンジに廊下を染めている。今日は天気が良さそうだな。
それから30分くらいして周ちゃんが梃子と一緒に起きてたきた。「おはよう。まだ5時だよ。大丈夫?」「うん。パンと卵でいい?」「うん。ありがとう。」周ちゃんのトーストは今日もたっぷりのマーガリンが塗ってある。スクランブルエッグもいつものとおり甘くて美味しい。たっぷり塗るのはバターで、マーガリンは少しでいいんだけどなといつも思うけれど、いつも言わない。私がパリで覚えたパンの食べ方ではバターは食べるものだと教えたから。バターとマーガリンは周ちゃんの中では同じみたいだった。
「遅くなってすみません。」「いえいえ、道路混んでましたから。それに8時に着きたかったからピッタリですよ!」新宿から乗ったタクシー。メーター横にある時計を見たドライバーさんと目を見合わせて笑いあった。時計は8時00分。家を出たのは6時。前だったら考えられないような移動時間。だけど、田舎暮らしの不便にも段々と慣れてきた。世田谷の空は青々しくて綺麗。陽が強くなりそうだな。幸先がいい。とりあえず無事到着したからきっと何とかなる。午前は殆ど屋外での撮影。帽子、持って来れば良かった。クラクラしてくる。腰の事を朝に相談しておいたので、編集の本郷さんも野崎さんも気を使ってくれた。腰のことを考えて、とにかく調子に乗らないようにと途中途中で言い聞かせた。撮影は順調に進んで、さっと片付けてタクシーに乗った。特急列車にたまたま乗れてあっという間に駅に到着。予定よりも1時間早く帰ってきた。なんだか今日は面白いくらい移動がスムーズ。駅ビルで赤魚の干物とホタルイカの刺身を買ってタクシーに乗った。腰の様子は思いの外順調。どうしちゃったんだろう。帰れなくなったらどうしよう。そんな心配までしてたのに。夕飯は周ちゃんが買っておいてくれたインドなんとかっていうIPAのビールを飲んだ。本郷さんが帰り際に「よしみさん忘れ物!」とスタジオの外まで走って持ってきてくれたお土産のビールは明日の楽しみにした。本当はこっちが飲みたい気分だった。だけど周ちゃんが体調が悪いみたいで元気が無かったからそうした。「なにか嫌なことがあった?」何度か聞いたけど、お腹と頭が痛いのだそう。何でもないといい。

今日も朝から腰痛。「じっとしてるより適度な運動がいいんだよ。」先日にぎっくりをやった周ちゃんが言った。「歩ける?」「うん。頑張る。歩いてる方が楽だよ。」梃子と裏山へ散歩へ出た。雨がポツポツと降り出した頃だった。腰痛はどんどん酷くなっていく。何をしても痛くて仕方がない。家の中での生活がままならない。トイレに座るのも痛いし、食事をする為に椅子に腰掛けても痛い。階段は両手両足を使っていつもの3倍くらい時間をかけて上って、下るのも手すりに這いつくばりながら降りた。ああ、どうなっちゃうんだろう。心配ばかりが募る。仕事の合間に夕飯のハヤシライスを作った。こないだスーパーで特価だったスペアリブを水で1時間くらい煮込んで、軽く痛めた玉ねぎと合わせて1時間くらい煮込んで、人参と最初の方に入れる予定だったトマト缶を入れて30分、ハヤシライスのルー、きのこをいれて20分。ソースで少しだけ調味して火を止めた。ご飯は周ちゃんが炊いてくれた。お米用の無水鍋だって持つのが辛かったから本当に助かる。
夕飯はいつも通りの時間に食べた。周ちゃんはハヤシライスを目をまん丸くしながら食べてる。「すごい美味しいよ!えーすごい美味しい!!」「ただ煮込んだだけで大したことは何もしてないよ。」「すごいよ〜!」「腰痛が治ったらもっといいものを作ってあげるから。」と約束した。腰痛が始まってから家事も料理も殆どを周ちゃんがやってくれてる。親以外でこんなに世話を焼いてもらったのはきっと初めて。元夫なんて高熱の私に忙しいからとポカリだって買ってきてくれなかった。そういえば、先日ドライブ中に周ちゃんと歴代の彼氏彼女の甘えん坊ワースト合戦をやった。「いつもは几帳面でキビキビしてる子なんだけど、朝とか赤ちゃん言葉で喋る彼氏がいてさ。パンツ一丁で 私の腕をさすりながら “なんでベッドにいないのぉ、ぼくぅさびしかったよぅ” って。」「えー!!本当にそういうのいるの!?」「全然いるよ。彼は中々だったけれど。長男だし、もしかしたら家の環境で親に甘えられなかったんじゃないかなって思うんだよね。」「あとは靴下履かせてと言う男とかかな。」「えー!靴下って自分で履くもんじゃないの?なんで?え、なんで??」「何でと言われても、履かせてと言うんだもの。え?って思ったけど履かせたよ。」それは彼氏ではなく元夫の話。周ちゃんには言わなかった。私が寝込んでも頼んだポカリを忘れたと嘘をつく元夫のこと。
朝の4時40分にアラームをかけてベッドに横になった。横になるのも一苦労。だけど、横になったらなったで体が固まって寝返りがうてない。「周ちゃん、くるっと横に押してくれない。」「いいよ。介護みたいだね。」と周ちゃんが笑ってる。笑い事じゃないよと思いながらも散々と甘えさせてもらった今日も心から感謝感謝と思いながら寝床についた。明日の撮影、本当に大丈夫なんだろうか。とりあえず雨予報は無くなって天気だそう。天気はいいけど、撮れなかったらせっかくの天気も台無し。とにかく寝よう。今は寝るしか出来ない。

朝にSONYのデジコンが届いた。最近また日常を撮ろうと昔みたいにフィルムでとも思ったけれど、忙しい毎日の中でフィルムを現像、印刷するのも、高額になったネガフィルムをばかすか買うのは日常が撮りたい私にとっては非日常的過ぎる。どんどんと消化されていくものが日常なのに、カメラが嗜好品みたいに時々だけ手にとっては愛でる様な物になったら、大事な何かをきっと平気で見逃していくと思う。とりあえず首にぶら下げて周ちゃんと梃子を撮ってみる。使い慣れないズーム機能、「すごい、すごい。」と驚いてると周ちゃんが遠くで笑ってた。
木曜日の夜に痛めた腰がどんどん悪化していく。昨日は大分楽だったのに笑っても痛いし、座っても痛いし、なんだか腰を超えて足だとか内臓だとかも痛く感じてくる。立ってるだけでもそわそわしてくる。なんなんだろうこの感じ。午後に結婚ノートを持って近くの喫茶店に自転車で行った。まるで夏日の午後。周ちゃんは短パンにTシャツ。私も帽子を深く被って日焼けしないように大きめの薄手のシャツを羽織った。宮崎駿さんご夫婦がよく来られるという喫茶店。店内ではネゴンボ監修のカレーも食べれる。のんびりした午後みたいですごく良かった。私の腰痛を除いては。落ち着いたフリをしていたけどずっと何とも言えない痛さだけが続いた。ああ、痛い。時折走る激痛に「痛っ」と声が出る度に眉間に皺を寄せて心配する周ちゃん。「今夜は俺がお好み焼きを作るよ。」納豆とシーフードと豚肉とってバラエティーに富んだラインナップ。腰痛の為に夫が晩御飯を作ってくれる。夢見たいなシュチュエーションだった。それに、今日のお好み焼きも最高に美味しかった。周ちゃんは張り切って何枚も何枚も焼いてて、楽しそう。腰はどんどん悪化していくけど、周ちゃんが嬉しそうで良かった。
月曜は長丁場の撮影。大丈夫なんだろうか、この腰痛。東京まで電車に乗れるのか、荷物を持って歩けるのか、家中を這いつくばって歩いてるのに、大丈夫なんだろうか。不安ばっかりが募っていった。

「愛してるから!」夕方の16時。周ちゃんが饂飩を茹でながら珍しくちょっとだけ大きな声でキッチンから叫んだ。周ちゃんの言葉に思わず笑ってしまった。周ちゃんってもしかしてもうすぐ死んじゃうのかな。よく思う。本当によく思う。しきりに思う。それって最期に言うような言葉だよね。恥ずかしくて嬉しくてどうしていいのかわからなかった。
今日は朝から診断書を病院へ取りに行ったり、皮膚科へ行ったり、銀行の名義変更。ためていた細かい用事を済ませた。駅を出たのが朝の9時過ぎ。帰宅したのは16時。途中に暑くて強い日差しにクラクラしてコーラを飲んだだけ。お腹もすっかりペコペコを通り越していた。「お昼食べてないの、こんな時間だし冷たい饂飩でもさっと食べようかな。」何も言わずに饂飩を茹で始めた周ちゃん。私は末っ子だから甘えるのは得意な方だと思う。だけど、まだ甘えてないよ、周ちゃん。今日会った色々を話した。うんうんと聞きながら饂飩を茹でる周ちゃん。「ねぇ、周ちゃん。どうしてそんなに優しくしてくれるの?」毎日ありがとう、ばっかり言ってる。きっと梃子はありがとうって言葉に意味もわからず飽き飽きしてるんじゃないかってくらい。いつもいつも。本当にありがとう、だ。だからって、「愛してるから!」だなんて返さないでほしいよ。困るよ。標本にでもしたいよ。ぺたっと時間を止めておきたい。夜の夜までずっと「愛してるから!」がリフレインした。
東京、楽しかったな。池袋なんて都会過ぎてビックリした。いつも遊ぶのは渋谷、青山ばかりだったからかな。世田谷区とか目黒区の事はよく知ってるけど思ってるより東京の色々を知らないかもしれない。帰りに駅ビルにあるロフトでジェットストリームのボールペンを買いに寄った。ジェットストリームはほぼ日の仕事をしてから使ってるお気に入りのボールペン。2016年からジェットストリーム一択。柔らかいタッチのペン先がスラスラと文字を泳がせてくれなきゃいやだ。銀行だとかホテルで丸くて太いボールペンに出会った時の私の萎え度は半端ない。あまりにがっかりして私の名前は最低最悪なぐちゃぐちゃのミノムシみたいな形となる。ロフトのペンコーナー。ジェットストリーム。探しても探してもない。あれ。おかしいな。絶対にないわけがないのに。あ!ジェットストリームコーナーが特設されてる。え!!あれだけ私言ったよね。ジェットストリームはカラーデザインを見なした方がいいって。なんとピカチュウとスヌーピーのコラボレーションペンが売ってる!!正直ピカチュウが誰なのかは知らないけれど、ものすごく可愛い。ああ、良かった。ようやく来た。しかるべき日が来たよ。ボールペンに600円。高い。だけど、買う。ピカチュウは誰だか知らないけど買う。
「なんとピカチュウのジェットストリーム!梃子みたいでかわいいよね。」「そうだね。」冷たい饂飩をすすりながら周ちゃんにペンを見せた。今日はリモートで家で作業していた周ちゃん。肌が助けた薄いTシャツに白いシャツを羽織ってる。家着にしてはかっこよ過ぎてないかな。色っぽいじゃないか。若い男には申し訳ないくらい興味がないのは周ちゃんの所為だ。中年男子の周ちゃんの色気。どうしようもない。

今朝の梃子は飛び切り元気だった。可笑しいくらいに梃子は日に日に明るくなっていく。私と二人の生活に戻った時も気づいたら兎みたいにぴょんぴょん飛び跳ねていたのに、最近じゃ手の平サイズの赤ちゃんだった時みたいに世界に安心しきってる。「梃子はね、100語くらい言語がわかるんだよ。だから何でも言葉で話すようにしてるの。」周ちゃんは梃子の目を真っ直ぐ見てよく話をしてる。あの話しは嘘じゃなかったんだけど、周ちゃんは律儀にも人と話すみたいに梃子と会話してる。周ちゃんの前に座り静かにその話を聞く梃子。大体の話はわかっていそう。梃子とはもう10年以上一緒に暮らしてるけど、今の生活が気に入ってるのがわかる。周ちゃんの横で寝て、周ちゃんの膝の上に座って、周ちゃんにお気に入りのねずみや赤ちゃんの時からずっと一緒のグレーの猫の人形を毎朝、毎晩、ひつこく周ちゃんの元に持っていっては遊んでよと尻尾を振って吠える。そしてまた朝が来て、「周ちゃん、朝だよ起きて。」人間の言葉で言うならそんなフレーズで嬉しそうに吠え、周ちゃんと一緒に今日を始める。
「なんか今日の梃子はすごい元気だね、どうしちゃったの?」ちょっとはにかみながら困った顔の周ちゃんが梃子と一緒に起きてきた。周ちゃんのまいったなぁ〜って顔が私は大好き。寝ている周ちゃんを起こすのは止めて欲しいけど、あの顔の周ちゃんを見るとニヤニヤしてしまうから複雑。もし取っておけるならば箱にでもしまっておきたい。そして時々開いてはニヤニヤして楽しみたい。
今日は家で仕事。あっという間に夕方になって周ちゃんが帰ってきた。そのままお互いの書斎でまた夜まで仕事。18時を過ぎた頃に周ちゃんが部屋をノックした。「ちょっとご相談で。新宿テアトルで前に話してたデザイナーの平野くん。クウネルとかやってた。出てる映画が今日最終日らしくて。」「うん。行っておいでよ。トマトスープ作ってあるから食べてから行ったら?」
最高に美味しかった。こんなに美味しいスープパスタは人生で一番かもしれないってくらいに最高だった。昨日の塩だけで煮たポトフにトマト缶を入れて少し煮た後にナンプラーで調味してオレガノを少々。ラザニアのパスタをちぎって湯でボイルしたものをトマト味のポトフ鍋に入れひと煮立ちさせてからお皿に盛る。オリーブオイルを垂らして出来上がり。「あと2杯は食べれるよ。」「ほんと美味しい!」
周ちゃんが帰宅したのは23時。雨に振られてずぶ濡れだった。「おかえり〜!」「おめでとうございます〜。」丁度その頃にヤフオクで近藤昭作さんのヤマギワの照明を落札した事をLINEで伝えていた。ずっと気になっていた照明。畳の部屋の照明をどうするかずっとずっと迷っていたけどやっと決まった。外はまだ雨が強く打つ音がしてる。数時間だったけどひとりの夜、最高だったな。人の気配がしない部屋、私が暴れようが喚こうが誰にも何にも言われない空間。麦酒を1缶だけ書斎で飲んだ。どうせ私達は別々の形の中にいるのだから、同じ屋根の下にいなくたっていい。離れたら離れたでより一層に愛しくなったりもする。そんな気分に浸れた夜だった。

ここ最近、元夫の夢を見る。昨晩もまた元夫は私をいつもの様に困らせていた。何がどうなのかは忘れたけど、どこにも逃げ場の無いようなもの。あっちに行ってもこっちに行っても嫌なことが起こる。じゃあどうすればいいの!と怒る自分にも嫌気がさしてきて。だけど、結局、元夫は私を愛していると何事も無かったように言い、私は全部を知っているのに綺麗に塗りつぶして愛のある場所へと戻ってくる。そう、誰かの愛とうちのそれは違うんだ。どれが良くてどれが悪いのかなんてみんなそれぞれ。これが私達の愛の形。だって暖かい。きちんと温もりを感じる。だから、多分大丈夫。きっといい。これが愛。そんな夢の中で、私の胸をプスプスと鋭利なもので刺す元夫に「ああ、またか。」と、途方に暮れかけた時、”もう嫌。こんな酷いこと、私は好きじゃない。” それは、元夫にじゃなくて私に強く言った言葉で目が覚めた。
暗闇の中の先で寝る周ちゃん。その脇に梃子がくっついて寝てる。周ちゃんも梃子もまとめて大きく抱きついた。有難い。本当に有難い。世界は狭いよ。だって自分の目でしか見れないのだから。誰かの目を借りれたらどれほど優しくなれたり悲しんだり出来るだろうか。もっと早くに大切な事にも気づけたかもしれない。私が当たり前だと思っていた愛の世界は、全くもって当たり前じゃなくなった。たったの二年前の話。コロナが置きて、合わせたように元夫の病も色々も酷くなってからの事。
どうして元夫の夢ばかり見るのかわからないけど、夢の中の私は過去にいるのに今にいた。未だ始まったばかりの生活はどこか地に足がついていないような毎日が連続してる。私の居場所は何処なんだろう。安全な生活、周ちゃん、心地よい時間だけがここにはある。梃子は驚くほど穏やかになって、野山を走り回ってる。最近私の体重はまた増えた。どんどんむくむくと大きくなっていく。これから、一体どうなるんだろう。どうなったらいいんだろう。もしかして、ようやく荷が降りたのかな。右へ行くも左へ行くも、我儘言える時がきたのかな。
料理写真を始めたのはどういうわけか元夫がおかしくなってきた頃。私がひとりで前へ進み始めたら、寂しそうにしてた。だけど、そんなのは愛じゃないよ。私には私の人生があるもの。会社を突然やめてきた時も、暴れた時も、嘘をついた時も、どんな時も決まって言うのは私が悪いから。だけど、私がお願いしたのは一つ。「歌って、歌が嫌になったのなら何でもいいから好きなことをして。」私はいつだって応援できるけど、あなたの夢は叶えられないし、叶えたくない。すっかり軽くなった。春みたい。そういえばフミエさんが筍だとか春の山菜を食べすぎると吹き出物がどっと出るよと言ってたけど、私の色々も出てきたのかな。そして新しい何かをするために栄養をまた蓄えてる気がする。春がもうすぐ終わる。

特急列車に乗って東京へ向かった。車中で昨日フミエさんと話してたインスタのリールを早速あげてみた。なるほど。これがリールか。夢中になって携帯をいじっていたら少し電車に酔った。今日は目黒のハウススタジオ。ちょっと駄目なエリア。嫌いというか、あまり立ち入りたくない場所。別にいいけど、すごく厭。中目黒だったらきっと息を止めて歩くけど、目黒の先だし、まぁいっか。好きじゃないだけ。
今日は天気がすごくいい。目黒駅でタクシーに乗った。ああ、やっぱり東京はいい。東京のタクシー最高。本当に好き。ありがとう、タクシーの運転手さん。直ぐに来てくれるし、直ぐに思いの場所へ連れてってくれるし、私が好きなジャパンタクシーがいっぱい走ってる。タクシーはジャパンタクシーしか乗りたくない。じゃんじゃんあちこちを走ってるジャパンタクシーを見るだけで気分がいい。東京暮らしを離れて思うことは、東京は時々くるとすごく楽しい。
スタジオに強い日差しが入ってきてすごく気持ちが良かった。昨日はあんなに寒かったのに嘘みたい。初めましてな人ばかりだったけれど撮影は楽しかった。帰りの電車で読んだ江國香織さんの本 “泳ぐのに、安全でも適切でもありません” の中の”犬小屋” というお話。わからない。不思議な感情になった。多分、初めてかも。読んでるのに、無色透明に伝わってくるわからない。もしくは、もしかしたら、見ない知りたくない事なのかも。
その話は、他人から見ても仲睦まじいカップルが夫婦になっても愛し合っていて、主人公の妻は夫をその夫も妻を愛していたのだけど、そうだった筈なのだけど、いつも「うん。」って何でも聞いてくれる優しくて愛おしい夫が犬を飼いたいと言い出し1ヶ月かけて犬小屋を建て、ちょっと犬小屋で寝てみたいと言い犬小屋で寝出してから出て来なくなったという話。愛ってどこから愛でどこまで愛じゃないのか時々わからなくなる。ましてや夫婦になるとその線引きが毎日にどんどんと溶けていくのを知ってる。正直、今の生活、新しく始めた二度目の結婚生活があと何十年って同じ場所で同じように続く事に恐怖がある。昨日フミエさんと話していた事。「100%信じれるっていう関係にはなれなくて。周ちゃんが悪いとかそういうんじゃないんですけど、だけど、一定の距離は置いて置きたいです。」「よしみちゃん。流石、経験者だねぇ。」何だか、そんな気持ちをもってる自分が周ちゃんに申し訳ないような後ろめたさがどこかにある。全力で私に駆け寄ってくれる周ちゃん。私は両手を広げながら、しっかりと何処かにそれを隠してる。引っ越す前か引っ越して直ぐの時に東京に家が欲しい話を周ちゃんに話した。「機材用の倉庫を借りたら?」って周ちゃんが言った言葉に「そうじゃない。」ってちょっと強い口調で返した。そうじゃないよ。私は怖かったんだと思う。私達はそれぞれなのに、また曖昧になってしまうかもしれない事がきっと怖い。
夕飯を食べ終わって、いつもみたいにソファーで周ちゃんの実家で作ってる健康茶をすすりながら話した。「周ちゃんに借りた江國さんの本でわからなくて。犬小屋って話覚えてる?」「うん。あの江國さんの本は覚えてるよ。だけど、ちょっと忘れてるかも。また読んでみるよ。」「うん。犬小屋から出てこない男の人の気持ちが知りたいんだよね。」「うん。わかった。」この人とはずっと別々でいたい。大切にしたいから私からは離れていてほしい。


今日は久しぶりにフミエさんのアトリエで写真を撮った。天気はあんまり良くない。だけど、いつも通り元気なフミエさん。毎度、はじめましてのように関心するのだけど、フミエさんって本当に素敵。一緒にいるとぱっと時間が華やかになる。それでもってご飯も美味しいなんて、そんな最高な事はない。今日もすごく美味しかったな。周ちゃんにお土産までいただいてほくほく気分で帰宅した。
駅を降りると今にも雨が降り出しそう。それに東京よりもずっとずっと寒い。なんだか甘いものが食べたい。駅前にあるミスドでドーナツを3つ買って帰った。玄関を開けると早く帰宅した周ちゃん。黒いシャツが素敵。明日は早いから今日はビールはやめて、筍ご飯を一杯食べて早々に寝た。


一昨日に撮影データーを送った編集の成田さんからメールの返信があった。”めちゃめちゃ素敵です!!!” なんだかすごく嬉しい。嬉しい。雑誌RiCEの撮影はラフが無い事が多くて、現場での出来事を優先しているのかなって感じがする。多分。だから、何が起こるかわからないドキドキ感はあるけど、すごく楽しい。桃太郎だとかドラクエみたいに、それぞれが持ち前の武器だけ持ってとりあえず挑むような感じ。一昨日は編集の成田さん、編集長の稲田さんが現場に来られた。褒められた事が嬉しいっていうより、あの場所で写真を撮ったそれを一緒に掴めたような気がしてすごく嬉しかった。写真、やっててよかった。何だかすごくそう思った。
「今日はタルトが食べたいな。」「ケーキ買いに行く?」今日は雨だから家でリモートで働いてる周ちゃん。「スーパーのついでに行こう。」自転車は5年くらいビアンキを乗ってたけど飲酒運転でそこそこ大きな事故を繰り返していたのを理由に乗るのをやめた。一番喜んだのは母。タイガーリリーの長い三つ編みに憧れて伸ばしていた髪を切った時と同じくらいに私が自転車を卒業した事をすごく喜んでた。今思うと、20代最後から30代頭頃まで、母はよく私に呆れてた。そんな頃に出会った元夫は飲酒しては私のビアンキを公園なんかに乗り捨てて、早朝にひとりで自転車を探しに行ったこともあった。それから一年足らずであっけなくビアンキは誰かに盗まれた。中々高価なものだったし、何より思い出が沢山詰まった自転車だった。悲しかったけれど、悲しむ余裕が無い毎日だった。久しぶりの自転車ライフ。色々な想いとは裏腹にただ走ってるだけで楽しい。
周ちゃんが前を走ってる。切ったばかりの髪が素敵。ぼさぼさの髪型も気に入ってるけど、整った髪もいい。それに周ちゃんは背中が大きい。だからか顔がすごく小さく見える。埼玉の田舎でスタイリッシュなイケメンが自転車で走ってる。なんて素敵な光景だろう。マスクの下でニヤニヤした。
4時のおやつに開けたケーキに悲鳴をあげた。「どうしたの?」「ケーキが!」周ちゃんはフルーツロールケーキ。私はチーズケーキ。自転車のカゴの中で崩れたんだろう。チーズケーキの上にロールケーキのミカンが飛び乗ってる。「そちらの土地に行ったものはもうそちらのものだよ。」「だよね。やったー。」街のケーキ屋さんの味がする。素朴な味。美味しかった。あっという間に食べ終わっちゃって寂しい。なんだか最近すごく生活が撮りたい。

朝は少し寝坊した。本当は4時半に起きて仕事をしようと思ってたけど、起きたのは6時過ぎ。少し書斎で片付けごとをしてまたベッドへ戻った。寝起きの周ちゃんとセックスをしてまた普通の私達の朝がやってきた。今日も暑そうだな。ベッドルームや吹き抜けの階段が光で充満してる。一昨日に買ったコッペパンで卵サンドを作って、お茶をポットに入れて周ちゃんと梃子の散歩へ出た。
何であんな事で喧嘩みたいになっちゃったのかわからないけれど、私の言うそれと、周ちゃんの言うそれは交れなかった。だってさ、絶対に。なんて当たり前のような話をしても、それは私だけの世界の見方であって、それが100%正しかったとしても、それは私にとって正しいとしていること。ほんの小さな事でも一瞬で大きな溝なのか壁なのかが私達に果てしなく遠いいような距離を作った。かける言葉ひとつひとつが胡散臭く聞こえてしまったり、どうしたらまた元に戻れるのか途方に暮れていたけど、もしかしたら周ちゃんもそうだったのかもしれない。昨晩の夜中に周ちゃんの背中を見てすごく寂しくなった。少し意地を張っている自分がいそうな気もしていたし、そんなプライドは誰のためにもならないことくらいわかってた。
裏山で気に入っている場所がある。そこは森の中に木のテーブルと椅子があって、小さな広場のようになってる。そこに腰掛けて朝食を始めた。ウグイスだとか鳥の声が気持ちがいい。そのうちに梃子と周ちゃん、私も追いかけっこをして、散々走って、家路に着いた。
“筍、買っていくね。” 仕事に出た周ちゃんから写真と一緒にメールが送られてきた。ミュージアムの近くの畑で採れたのだそう。じゃあ、今日は春キャベツの春巻きにしようかな。19時前、床屋に寄って髪がさっぱりした周ちゃんが帰ってきた。手には菜の花を持ってる。「おみやげだよ。」「どうしたの?」「拾ってきたよ。」そのまま、本棚の隣にある黒い花瓶に花をさして二階に上がった。菜の花、綺麗だな。周ちゃんって可愛いな。筍を切って糠でアク抜きを始めた。「周ちゃん、筍はどうやって食べる?」「刺身もいいし、焼きもいいよね。」
夕飯は春キャベツの春巻き、蕪のサラダ、豚の角煮、葱とワカメの味噌汁、納豆、ご飯。筍は焼き筍にして食べた。周ちゃんが春巻きを美味しい美味しいって何度も言ってた。こっちに引っ越してきて変わった事の一つに、近所で採れる野菜がとにかく美味しい。そして私達はきっと仲直りをした。
夜寝た時は良かった。朝起きた時も。6時を過ぎた頃、書斎で作業をしてると周ちゃんが「あ!」と言って起きる音がした。そのまま直ぐに外にでてバタバタとなにかを始めた。もしかして外の倉庫にしまってる引っ越しの段ボールをまとめてるのかな。私も一緒にやるって言ったのにな。昨日の件で申し訳なく感じたのか全部一人でやるって寝る前に言ってた。結構な量の段ボール。まさか一人で捨てたりしないよね。しばらく様子をうかがっていたけれど一向に家に入ってこない。慌てて服を着て1階に降りていこうとすると、周ちゃんが玄関から戻ってきた。「段ボールやってた?」「うん。捨ててきたよ。」「私もやるって言ったのに。」難しい。
朝ごはんもぎこちなく食べた。周ちゃんに話しかけても棒読みのセリフみたいな言葉だけが返ってくる。難しい。私の言葉で言うならば、もう私は怒ってないし、周ちゃんも悪く無い。問題は解決したからいいんじゃないかな。いや、それは私の問題についてなだけだ。周ちゃんにとってはそうじゃない。傷跡みたいなものが周ちゃんを踏み潰してしまってぺっちゃんこに、周ちゃんっていう色々が一枚の影のようになってしまった。私が出かける時に玄関ではいつものようにハグをした。「大好きだよ。」周ちゃんはいつもとは違う言葉を言った。私は「いってきます。」とだけ言った。別に深い意味はなかったけど、後から思い返すと同じように返しておくべきだったと後悔した。
出先でも梃子の写真を送ってくれたり、メールだとかはいつもみたいだった。帰宅して顔を見ると、またぺっちゃんこの周ちゃん。私の顔見ると思い出すのかな。だけど、私は怒ってない。周ちゃんの部屋へ行って少しだけ話してみたけど周ちゃんは未だぺっちゃんこ。何が悪いんだろう。難しい。だけど、私の見え方で話しちゃいけない。いけない。いけない。「私、どうして欲しかった?どう振る舞って欲しかった?」結局、ぎこちないままに話は終わった。
明日は周ちゃんの好きなものを作ろうと思う。傷つけてしまったのなら、もう傷つけたく無い。だけど、私の気持ちだって大事。私は私達のために変わった方がいい。

今日は納品作業。夕方早い時間から夕飯の支度を始めた。明日は昼前から撮影、まだ慣れない移動の為にも早く寝たい。今夜は周ちゃんが好きな豆のスープを作った。キャベツ、セロリのみじん切りに手羽元と青大豆をコトコトと煮たスープ。味はコンソメ、塩、ローリエを1枚。
19時にフミエさんと山若君と打ち合わせが入ってる。その前にお風呂に入って、と色々の準備を進める。周ちゃんが18時過ぎに帰宅。「私、明日早いからね。」「ちょっと部屋の片付けをするよ〜。」部屋にこもった周ちゃん。打ち合わせが終わった事を周ちゃんに伝える。「お風呂入ろうかな〜。」なんでわざわざいま?「さっとシャワーに浴びるね〜。」中々出てこない周ちゃん。ざぶんと湯船に浸かる音がした。「周ちゃん、いつでる?」「もう出ます〜」何だかイライラが爆発しそう。明日は11時から都内で撮影だけど、家を出るのは8時半。その前に色々とやりたい事もあるからいつも通り5時には起きたい。早く夕飯だとか色々の準備をしたのにな。それに昨日から早い事は伝えてる。怒らない、怒らない。いや、食事の前に伝えようかな。「お風呂頂きました〜。」一旦、爆発寸前の私をマンホールに閉じ込めて食事だけを済ませた。押し込められた私の心は何も感じないようにと努めてる。だからか言葉は殆ど出てこなかったし、ハヤシライスも殆ど噛まずに平らげた。食事を終えて適当に寂しい会話をしてベッドに横たわった。
読みかけの本を読み切って、部屋の片付けに戻った周ちゃんに声をかけた。周ちゃんは私が怒ってる事も、その理由も、少しの会話で察していた。「ごめん。俺が悪かったよ。」ぎこちないままに、一緒にベッドへ行って寝た。私一人が怒っただけの事だけど、初めての喧嘩かもしれない。周ちゃんはひたすら謝っていた。私は気持を伝えたかっただけで、周ちゃんが悪いとは思ってない。ただ、私の仕事が田舎へ引っ越す事で大変になる事を理解して欲しかっただけ。今までと殆ど変わらない生活をする周ちゃんはいいよ。私は東京の真ん中から埼玉の端っこに引っ越したのだから、ここでの生活が順調そうに見えたとしても、まだ不安は沢山残ってる。

朝一番に起きるのは私。その後、梃子が7時くらいに起きてきて、梃子が二度寝をしにベッドへ戻った時に周ちゃんを起こしてくるのがいつもの朝。今日も。書斎で日記を書いていると梃子が部屋に入ってきた。「てっちゃんお早う。」今日はこのまま抱きかかえていよう。日曜日だし周ちゃんはたまには寝坊した方がいい。朝食は目玉焼きご飯と残り物のおかず、納豆、キャベツと揚げ麩の味噌汁。今日は初めて畳の部屋で食事をした。テーブルは買ったばかりのちゃぶ台。私が数ヶ月にわたり周ちゃんにプレゼンし続けて口説き落としたテーブル。中々、高価な買い物だったからか、ずしりと新しい生活に根をおろしたような気持になった。
昼頃から庭の土おこしを始めた。周ちゃんはポカリスエットのCMにでも出てきそうな清潔感たっぷりのTシャツ姿で大きなスコップで汗をたらしながら土を掘りおこしてる。私はその脇で掘りおこした土の根や雑草をとり続けた。今日の庭仕事は土を整備し、昨日買った金木犀の木、ミモザの木、トマト、胡瓜、茄子の野菜の苗、それから、私がマンションのベランダで育てたハーブや月桂樹の木、巨大アロエを植えること。暑い初夏みたいな午後はどんどん過ぎていった。玄関横に前の人が育てていたらしいミントの香りがする木を見つけて林檎箱に植え替えたりもした。途中で周ちゃんがコンビニで買ってきてくれたシロクマアイスを食べたり、アールグレイのアイスティーをいれて飲んだ。ああ、暑い。時間は16時前、ようやく色々が片付いて遅い昼食に素麺を茹でて食べた。冷やし素麺は今年初めて。氷を沢山入れて冷え冷えにした。
ああ、土いじりって気持ちがいい。だけどちょっとまた熱中症気味。身体が重い。夕飯を食べながら高橋くんの話になった。「昨日は楽しかった?」「うん。高橋くんの3箇条、楽しかったね。よしみがメンターみたいだったよ。」「楽しかったね。けどさ、1つ目については心の叫びに聞こえたよ。」「うん。俺も。聞いてて辛かったよ。優しさというより、痛みにきこえちゃってさ。」「うん。私も。だけどいいと思う。こうやって人は自分の人生を選んでいくんだよ。」
人生って平等だなって思う。地獄みたいな日々を過ごしていた時期は世界を恨んだりもしたけど、選んだのは私だったと今となっては自覚してる。まさか愛した男に酷い事をされるなんて想像はしなかったけれど、あんなに酷くなる前に逃げる選択は十分に出来た。言葉を変えるなら、いなくなる選択肢は愛する選択と平等に持ち備えていた。世界中の人が平等とは思わないけど、私の人生においては平等に出来てる。幸せにも不幸にもなれる。しっかりと今日まで選んできた。だから、高橋くんが優しい人を求めるのは、もう愛した人に傷つけられたくないと切望するのは、高橋くんのこれからの人生の希望であり道筋になる。次に会う人は優しいだと思う。大丈夫。「1つ目は中々見つけられないよね。」って高橋くんは言ったけれど、「自分を信じれば大丈夫だよ。」って伝えた。優しい高橋くんは、優しい人に出会う。もし優しくない人に出会ったとしても、もう愛さないと思う。

私はいつも通り5時頃、周ちゃんは7時前に起きた。今日はキュレーター仲間の高橋君と千葉のサボテンの聖地、グランカクタスという店に行く。そのついでにジョイフル本田で庭の土や植物を色々買おうとなってる。ふたりでパジャマのまま庭に出た。周ちゃんが小さなスコップで土を掘り起こす。テコは朝陽の中で庭のあちこちを徘徊してる。気持ちのいい朝。何処に何を育てようか光の中で話した。
高橋君は周ちゃんより少し年下。毎回思うけれど、少年みたい。昆虫博士みたいな緑色のジャケットに白いパンツ、大きな大きな白いトートバッグを持って現れた。「おはよう〜。」二人はしばらくの間、東北の美術館での仕事の話やキュレーターの誰かの話をしてた。まったくちんぷんかんぷんな話。時々、アーティストの奈良美智さんとか、建築家の青木淳さんとか、私でも知ってるような単語が聞こえた。毎日の中にいると忘れてしまうけれど、周ちゃんは学芸員だったんだ。芸術に関する膨大な知識とそれと出会ってきた沢山の経験や世界。私が知ってる周ちゃんの一体どこにそれが隠れているんだろう。私達は同じくらいの年数を生きてきてるのに。何だか少し情けなくなった。私は今まで一体なにをやってたんだろう。恋だとか旅だとか写真、そんな事しかやってない。いや、それしかやってない。
千葉あたりを走る頃には高橋君と私の離婚の話になった。高橋くんは結末みたいなものから話始めた。「あの傷はずっと塞がらなくて、体の一部が失くなったみたいな感じなんだよ。」高橋君の言葉にうんうんと何度も何度も頷く。それぞれの別々の結婚や離婚があったとしても、その痛みはもう私を突き刺したりはしなくても、同じ場所で同じ景色を見ているような気持ちになった。周ちゃんはただ前を見て運転していた。私は私の話を上手く伝えられたかわからなかったけれど、出来る限りの言葉や想いを伝えた。そうしてしばらく離婚やパートナーの話をしていたけど、高橋君が少しでも前に進んだり、少しでも傷が癒えてくれるなら、何時間でも何度でもこの話を続けたいと思った。
それから、高橋君の次の恋をどうするか3人で話した。私は周ちゃんを見つけた時にパートナーに求める3か条なるものを自分の中で決めていた。「高橋君、パートナーに求める3か条って何?」「え〜3つ?足らないよ〜。」「駄目。3つに決めて。」「うーん。まず1つに優しい人かな。それってただ優しいんじゃなくて、例えば身内の人が病になって、だけど自分は仕事が忙しくて調子が良くて、そんな時に仕事はいつだってまた出来るからと諦めて、人の看病に専念出来るような心から優しい人かな。」「そうなんだ〜。じゃあ1つ目は優しい人ね。」「次は自立かな。仕事も生活も自立してる人。家事代行とかする人が悪いってわけじゃないし、忙しい女性が料理をしないで外食ばかりっていうのが悪いってわけじゃないけど、一緒に料理したり、掃除したりしたい。だから、自立してる人がいい。」「なるほどね。けど高橋君、それは自立っていうより生活の価値観じゃないかな。世の中に料理をしない女性は沢山いるよ。働いてる女性には多いものだよ。だけど、それって悪い事じゃなくて、料理を楽しみたい人かそうじゃないかなだけじゃないかな。どちらも経済的には自立してる。だから、高橋君は生活を楽しむ事が人生の中で大事で、その楽しみを一緒に出来る人がいいって事じゃない?だから、価値観だと思うな。」「確かに〜。」「じゃあ、3つ目は?」「知的な人かな〜。話せる人っていうのかな。こうやって色々な話が出来る人がいい。」「高橋君、外的要素はゼロ?心が良ければ、ものすごく派手な服装で髪はピンクで、結構ふくよかな子でも大丈夫?」「うーん。すっごく話が合う子がいたんだけど、どうしても好きにはならなかったんだよね。」「それってさ、高橋君が心だけじゃなくて、女性に外的、性的要素を求めてるって事だよね。例えば、可愛いとか、胸が大きいとか、肌が白いとか、そこに高橋君が恋に落ちるポイントがあるんだよ。」「確かに。じゃあショートの子かな。けど、誰でもいいってわけじゃなくってショートが似合う子がいいんだよね。」「ショートが似合う子がいいってよく男の子は言うけど、それって結局ショートの似合う可愛い子だよね。」周ちゃんと高橋君がわっと笑った。「3つ目は知的じゃなくて、ショートにしよう。」「えー難しいよ。」「ダメだよ。自分の100%理想なんていないよ。それに、性的要素は入れた方がいいよ。後は、大丈夫。相手を知る上でわかっていくものだから。」
私が周ちゃんに出会った時に掲げていた3ヶ条。明るい、身長が175cm以上、セックスがうまい。まず、未来に明るい人が良かった。どんなに苦しい事があっても、どうしようもない事が起きても、生きる事に希望を持てる人は生きる事が上手になる。明るい人は明るくなりたいから、明るく灯そうと努めるその光が周りを温かくもしてくれる。後は性的要素が2つ。だって、性的要素がなければ、動物だとか、友達だとかで事足りる。背の高い男が私はカッコよく見える。あとはセックスが上手ければ、男と女である事を楽しめるし、言葉では通じない事も身体を通してコミュニケーションがとれる。想いなんてものは共有しなくていい。心は私の男の中にそれぞれポツンと置いてあるものだから。それよりも一緒に楽しむことが出来れば、勝手に色々は上手に転がっていくものだと信じてる。私の経験上の話。
高橋君はレアなサボテンを3つ。周ちゃんは色と形が絶妙なサボテンを一つ。あと家に舞茸みたいなピンク色のサボテンを買った。帰宅したのは20時過ぎ。疲れた。暑いサボテンのハウスの中で4時間くらいボテンと格闘したから軽く熱中症気味。夕飯は簡単に野菜炒めにした。ジョイフルで買った金木犀や野菜の苗。明日は庭いじり。楽しみだな。

朝食は周ちゃんのスクランブルエッグ。今日は少し甘め。午前に色々を終えて、午後は周ちゃんと約束してたミュージアムにカレーを食べに行った。今日は天気がとびきりいい。新しい自転車に乗って一緒にミュージアムまで走った。周ちゃんはカジュアルなスーツスタイルに黒いリュックを背負ってる。桜並木の中で桜の花が散ってゆく。なんて綺麗なんだろう。だけど目も花も花粉で痒くてたまらないし、マスクの下では私のニヤニヤが止まらない。好きな男のスーツスタイル、私の大好きなものの一つ。
周ちゃんは鯖のココナッツカレーを、私は定番のスパイスカレーにした。大きなローテブルにソファーが並んだ席に向かい合わせに座った。この食堂は一般の方も社員の方も食事が出来る場所らしく、ランチミーティングをしている人や、ミュージアムに遊びに来た感じの人がちらほら食事をしていた。カレーを食べる周ちゃん。紺色のブレザーに、紺色のパンツ。シャツは薄いグレー。髪はいつもの天才作家のようなボサボサ頭じゃなくて、ちゃんとセットされてる。薄いフレームの黒縁のメガネ。姿勢がいい周ちゃん。爽やかさが溢れてる。ああ、かっこいい。こんな男をレストランで見かけたら3秒で恋に落ちちゃうよ。カレー半分、周ちゃん半分のランチタイム。至福だった。「どうしたの?」ニヤニヤが止まらない私に周ちゃんが言った。「いいよ。すごくいいよ。周ちゃん。」私の回答はまるでエロカメラマン。
少しオフィスを案内して貰ってコーヒーを飲んでバイバイした。駅前で爪の手入れを2年ぶりくらいにして、西武のGUでパジャマを買って、OKストアーでこないだ買って美味しかった会長おすすめの鯖を買って帰った。GUのパジャマを着るとなぜか周ちゃんが喜ぶからもう一着買った。楽しい爽やかな金曜日。

今朝は梃子の散歩で周ちゃんと水の神様が祀られてる神社へ行った。鬱蒼とした森の中にある神社。少し高台にあって、風が吹くと木々が揃って揺れて遠く街が見えた。周ちゃんはずっと神社の説明をしてる。梃子はこっちに来てから森を少し怖がってるけど知らない場所を歩くのが楽しそうな感じもする。周ちゃん曰く、この辺り一体は宮崎駿さんが愛した土地なのだそうだけど、確かにあの漫画の中の何処かにトリップしたみたいな気分。
この街に引っ越してきてから、なんだかちょっと優しくなった気がする。通り過ぎる人も、スーパーで会う人も東京とはちょっと違う。よく田舎へ行くと穏やかになるっていうけど、心が変わったというよりも、単純に広大な土地を目の当たりにして、まぁいっかみたいな気持ちになるだけのように思えた。世田谷のぎゅうぎゅうと街に押し込められた感じも好きだったけれど、人がいない田舎では人がいることが有り難く見えるような。
夕ご飯はトマトのチキン煮込み、セロリとモッツアレラのサラダ、人参のサブジ、塩豚とネギの炒め物、すじこ、青大豆のご飯、味噌汁を作った。周ちゃんはトマトのチキン煮込みが気に入ったみたいでパクパク嬉しそうに食べてる。21時ちょっと前、周ちゃんの電話が鳴った。「あ、やしろさんだ。ごめんね、ちょっと出るね。」「お久しぶりです〜。」途中途中、やしろさんの声が携帯から漏れて聞こえた。どうやら大分にいるのだけど、この時間でも行ける温泉を探してるようだった。「実は、結婚しまして。」「えー急展開だね!」話は続いた。「電話、ごめんね。仲のいいフォトグラファーの方だよ。福岡に住んでて、建築専門で撮ってる。」周ちゃんの笑顔がいつもよりも1.5倍増ですごく嬉しそう。少し年が上のやしろさんとは、大分の芸術祭の時にひょんな事で仲良くなってから、家に泊まりに行ったりと仲良くして貰っていたのだそう。
そうだよな。なんだか全然気づかなかった。周ちゃんも急にこの数ヶ月で人生が変わったんだ。

5時にセットした目覚ましが鳴る前にベッドを出た。今日は東京の家の引き渡し。その前に粗大ゴミを8時までに捨てなきゃいけない。着替えて簡単にメイクをしてポットにオーツミルクのカフェオレを作った。やっぱり、特急列車で行こう。20分くらいしか変わらないけど新幹線みたいに指定席でゆったりと座れるから楽しい。コーヒーを飲みながら本を読もう。家を出る間際に周ちゃんと梃子が起きてきた。「ごめんね。起こしちゃったね。」「大丈夫だよ。気をつけてね。」
2週間ぶりの我が家。ガランとして何もない。寂しくなって胸がぎゅっとした。いい家だったな。ベランダはテントが3つか4つはれるくらいに大きくて、全部が南向きの窓で1日中明るい部屋だった。お風呂は西側だからよく夕陽の中でお風呂に入ったし、キッチンが大きくて料理を思う存分に出来た。角部屋だから梃子がどんなに騒いでも誰にも怒られないし、松陰神社の駅前なのにいつも静かで鳥の声が毎朝聞こえるのが好きだった。あと、神社にもよく梃子とお参りに行った。ここでの暮らしが何よりも好きだった。不動産屋さんが来るまで1時間。朝ごはんを食べに家を出る。ずっとずっと昔にデザイナーの大西さんと打ち合わせで行った世田谷通りのカフェコロラド。10年ぶりくらいに入ったけど、今でも愛煙家の溜まり場だった。煙草の匂いは嫌いだけどなんだか居心地がいい。マスターの元気な朝の挨拶もいいし、メニュー裏に手書きで書いてある裏メニューっていうのも良かった。常連さん同士がコーヒーをすすりながらお喋りしてる、東京っぽいこなれた朝だった。
渋谷の蔦屋で仕事用の資料の本を探して、睫毛パーマをかけて、渋谷スクランブルでベージュのパンツを買った。13時にミオちゃんとストリームで待ち合わせをしてる。「よしみちゃん田舎もんづらしないでよ。つい最近まで東京いたじゃん。」ミオちゃんはいつも色々な髪の色をしているけど、20年ぶりくらいに黒髪にしたのだそう。何だか少し大人っぽく見えた。「新しい生活はどう?」「田舎だよ。すっごく。裏に山とかあるから。」私のスローライフから、ミオちゃんの最近の仕事や戦争の話や知り合いが亡くなってしまった話、いつ海外に住むとか色々な話をした。ミオちゃんは仕事だから時間が無いって言ってたけど、店を出たのは16時前。体調悪くて胃が痛いと殆ど食べなかったミオちゃんのフォーはまるで食品サンプルみたいになってた。「これからヨドバシに行って、新しく買った自転車を取りに行ってから帰るよ。」「長い道のりだね。」「すっごく長いよ。」「じゃあねミオちゃん。また東京くるね!」「田舎もんづらしないでよ!」私の埼玉ライフ。友達と気軽に会えないのは寂しいけど、もしかしたらそんなに悪くないかもしれない。東京は住む街じゃなくて通う街。好きな人に会いに行く場所になった。
今日の夕飯は餃子。本人は言わないけど、どうやら周ちゃんは街中華の餃子の方が好みっぽい。何度か色々な餃子を作って気づいた。キャベツ、ニラ、ねぎ、豚ひき肉を合わせてよく混ぜて、オイスターソース、醤油、ごま油多め、鶏ガラスープの素を入れて冷蔵庫で30分。大判餃子の皮にしっかりと具材を入れて羽根つき餃子にして出来上がり。餃子、美味しかったな。

朝から雨。すごく寒い。午前に私の部屋の中古の無印の棚が来て、周ちゃんの部屋の天道木工の座椅子とニトリの本棚がきた。周ちゃんの部屋はきっと本で埋め尽くされるんだろうな。想像するだけでワクワクした。引っ越しから2週間ちょっと、ようやく仕事部屋のダンボールが全てが空になった。ああ、すっきり。それにしても、私には荷物がなかった。印画紙、額、プリント、ネガ。ダンボールを開けるとそんなものしかなかった。もっとないもんかね。だけど、確かに引っ越しをする度に沢山を捨ててきたようにも思う。ちょっと寂しいような、だけど、大事なものってそんなに多く無いような気もした。
ダンボールから昨年の夏に編集のりりさんに借りたノルウェイの森が出て来た。一緒に引っ越してきたんだ。りりさんに本の内容を少し聞いた時に今は読めないなと思って棚に置いた。そうして秋を冬を越していつのまにか春になった。引っ越しの片付けも落ち着いてきたし、そろそろまた読書の時間を作ろう。「周ちゃんみたいに私も寝る前に本を読もうと思って。」ベッドルームにノルウェイの森を持って行った。周ちゃんは最近すごく難しそうな植物の本を読んでる。タイトルだけでも頭を抱えてしまいそうだからそれがどんな本なのかは聞かない。「リリさんに借りて、ずっと読めなくて。」「俺も持ってるから大丈夫だよ。」「そういうんじゃなくて。リリさんが貸してくれた本を読みたいんだよ。」「うん。じゃあ、一緒に読もう。」周ちゃんは本を声に出して読み始めた。「1ページずつ読もう。」周ちゃんって人は変な人だなと思う。変すぎてもう呆れて感心すらしてる。朗読しようだなんて、人生で初めて男に言われた。変な気分しかないよ。
人生初めての好きな人との朗読。思ったよりも良かった。それに、声に出して読んでみるとなんだか主人公の心が言葉がしっかりと聞こえてくるような気がした。交互に朗読を続けて第1章を終えるとどうにも切なくなってしまい本を閉じて抱き合って寝た。カップルになると2人だけのまぬけな出来事が起こっていくなと思うのだけど、今夜は正にまぬけだった。とてもまぬけな夜で周ちゃんがまた好きになった。

朝食は目玉焼きを焼いてご飯にのせた。周ちゃんは出会った頃は半熟派だったけど、最近は私のしっかり両面焼きにはまってるらしい。今日は駅前のビッグカメラで赤い自転車を買った。紺色にするか迷ったけど、店内で赤い自転車をまたいで試乗する私に「よしみは赤が似合うよ。」って言った笑顔の周ちゃんが良かったから赤にした。ハンドルもタイヤも赤。埼玉の田舎を走る赤い自転車。ちょっと恥かしい気もしたけど、まぁいっか。

8時にスタジオ入り。終わったのは16時過ぎ。楽しかった。すごくへとへとだけど、いい現場だったな。急いでタクシーに乗って新宿の駅に向かった。特急列車が丁度のタイミングで発車。あ〜あ、乗り過ごした。次の電車に乗ろう。席について窓の外を眺める。夕陽が綺麗。建物の間を光が通り抜けては列車の中に入ってきた。LINEを開くと編集の成田さんから “明日大場さんの展示ご一緒しませんか?” 行きたいけど明日はダメだ。もし東京ならサクッと出かけられるのにな。成田さん、会いたかったな。大場さんも。
駅を出てスーパーの入り口で仕事帰りの周ちゃんと待ち合わせ。「よしみ、お疲れ様〜」駆け寄ってくる周ちゃん。「夕飯何にしよう?」「ちゃんちゃん焼きなら作るよ。」「うん、、。」お昼のカレー弁当があまりに美味しくって完食した所為で午後からずっとお腹が痛かった。さっぱりしたものがいいな。疲労や腹痛、荷物の重さに色々がぎりぎり。食事を作って貰えるだけで有難い事なのになんだかずっと私の機嫌はよくない。レジで会計を済ませてエスカレーターに乗り前にいる周ちゃんの腕に不意に手を伸ばした。洋服の上から触れる周ちゃんの腕。一瞬で胸の辺りがじんわりと温かくなった。もう2度と愛する人を世界から失いたくない。だから、十分に私を満たさないでと強く望むけれど、これから段々とそうなっていくんだろうと思った。
夕飯のちゃんちゃん焼き。今日も美味しかった。
支度をしてると5時半に周ちゃんと梃子も起きて来た。今日は朝から撮影。埼玉へ引っ越して初めての撮影。前日にタクシーの予約が出来なくて周ちゃんがすごく心配してた。私も凄く不安。東京でさえ朝のラッシュ時にかかる仕事は移動に少し緊張するのに早朝の埼玉からの移動。大丈夫なんだろうか。1日通しての撮影。体力だってすごく使う。色々な不安だけが積もる。周ちゃんはキッチンに立っていつものバナナジュースと、チーズトーストを焼いてくれた。「行って来ます。」「行ってらっしゃい。」家の側のバス停まで送ってくれた周ちゃんは今日もかっこいい。
なんだか落ち着かない朝。本当はひとりで居たい。撮影の香盤の確認、どんな風に撮るか、天気やライティングのこと。周ちゃんが私の為にと色々をやってくれるのは有難いけれど、何だか余計に不安になった。勝手なのはわかってる。しばらく新しい生活が慣れるまでには時間がかかるんだろうな。この不具合に苛々したり不安になったりを繰り返しながら収まっていくんだと思う。人の温度を感じながら暮すのは丁度いいお風呂みたいで心地よいけれどひとりで築いてきた時間を手放したくない。これは私がおばあちゃんになってもずっと側に置いて一緒に生きて生きたいもの。
撮影が終わったのは18時半頃。ホテルの部屋に入って水を一口飲んだら胃がきゅうっとした。すごく疲れた。だけど、いい撮影だったな。いいチーム。いい写真が撮れるのも楽しいけど、いいチームであることがとにかく楽しいし嬉しい。wifiを繋ぐと直ぐに藤原さんからLINE電話がかかってきた。話の内容は来月の福島出張の撮影がキャンセルになったとのことだった。メールで伝えるのは申し訳ないから電話したかったとの事。仕事の話を終えて、私の新しい暮らしや、藤原さんの6月の結婚の話をして電話を切った。仕事のキャンセルは残念だったけど、電話、嬉しかったな。
ホテルの近くのプロントでホタテと菜の花の醤油バタースパゲッティーとレモンサワーを頼んだ。隣のサラリーマンは株の話をしてる。勧誘かな。帰って大浴場で汗を流してから周ちゃんに電話。少し長く話しをした。本当に身勝手。ひとりでいたいって思ったり、疲れて弱ったら彼の温もりを感じたいって電話したり。なんだか少しもやもやした。こういうのはもうきっと好きじゃない。1度目の結婚では、幸せになるっていうのは家の外壁みたいなものをもっともっと高くより高く積み重ねていくことだと信じてた。そうして家族だけの愛や、家族だけの秘密はどんどんと守られていったけれど、その高く積み上がった塀は私達を幸せにするどころか私をどんどんと結婚の中に孤立させるものとなった。もう間違えたくない。新しい結婚は新しい生き方を見つける糧にしたい。これからどんな形になるのか今はわからないけれど、そこで得た色々を周ちゃんにあげれたらいい。家族や友達、仕事仲間にだってあげたい。つい数週間前まで生活していた東京の夜。何だかアーバンだったな。

5時過ぎに起きて裏山に散歩に出た。忙しなさに気持ちが少しざわざわしそうだったから朝の空気で頭を空っぽにしたかった。帰宅して直ぐに仕事に取り掛かる。やってもやっても忙しさばかりが追いかけてくる。バタバタと朝食や昼食を済ませて気づいたら夕方。撮影で使う造花を駅前に買いに走った。本当は夕方に引っ越し疲れを癒しに近くの温泉へ行こうと周ちゃんは1日リモートに切り替えて時間を調整してくれてたけど結局私の仕事が終わらないままに夕方も過ぎようとしていた。「今夜はお刺身にしよう。」「簡単な手巻きにしよっか?支度は俺がやるから。」周ちゃんが言った。息をつく暇もなく駅から帰宅してまた仕事。首だとか色々がぎゅっとしてて痛い。お風呂にざぶんと入った。ああ、時間がない。まだ明日の準備が残ってるのにもう夜。リビングを開けると綺麗に準備された食卓がでーんって感じでいた。しばらくの間食卓を遠くから眺めてみる。綺麗。周ちゃん、ありがとう。

夕飯にカレーを作った。久しぶりのカレー。「今夜はカレーだよ。」聞いた周ちゃんの嬉しそうな顔を鮮明に覚えてる。可愛かったな。カレーであんな顔するんだ。

午前に食卓のライトが届いた。とにかく探したライト。ルイスポールセンAJロイヤルの旧型。高価な買い物だから2ヶ月散々考えて迷って決めた。仕事帰りの周ちゃんが電球を買ってきてくれて早速光を見てみる。「いいね。すごくいい光。」部屋についてるスポットライトがずっと嫌で使いたく無いって話してたけど、これでもう使わなくていい。AJロイヤルにはペンダントライトの傘の中に電球が4つ。光量が強い。食卓にスポットの様に当たる光。そこから部屋の角に向かって伸びていく溢れていく光。だから、リビングから続く畳の部屋には、ちゃぶ台用にダウンライトを置けばいいし、途中に一つフロアライトがあれば、そこで少し光の強弱、光と陰が山と谷の様に自然に生まれる。いつもの様に真剣に光の波について手振り身振りを交えながら周ちゃんにプレゼンした。周ちゃんは嬉しそうだった。最近気づいたのだけど、多分、周ちゃんはプレゼンの内容よりも、私が真剣に伝えてる感じが好きな気がしてる。
話が下手くそな癖に力説する私を見て、周ちゃんは部屋から色々を持ってきて本棚や出窓に色々をディスプレイしてくれた。自分の文化人類学の研究の為に買い集めた色々、日本のあちこちの箕、パキスタンで使用されてる山羊のミルクを温める器、信州の方のすいとんをすくう網。「リビングは食卓が主役となる場所だから、食に関するものを飾ってみたよ。」「もうちょっと部屋から持ってくるね。」何だかすごく楽しそうな周ちゃん。まるで小学生。
ソファーに座って部屋を眺めてみる。新しすぎる家の中でぽんと浮いたような存在だった私達だったけれど、少しずつ少しずつ馴染んでいくような気がした。こうやって家になっていくんだな。1年後、2年後とどんどん色を成していくこの家が楽しみだなと思う。今夜はこないだ役所で買ったラーメンと温野菜サラダ。温野菜はフミエさんの所で買ったお味噌とマヨネーズで食べた。

朝からレンタカーを借りてリサイクルショップと八王子のMICHIO OKAMOTO WEARHOUSEヘ。ここに来るのは何年ぶりだろう。近くにのむらさんとミッチーの家がある。男と男のカップルの食卓を撮るっていう作品を作っていた時に通っていた八王子の街。MICHIOヘはキナリノの相田さんとのお仕事で店の2Fで営んでる菓子屋の撮影で行った。懐かしい。
「本棚を探してるんです。」紹介して貰ったデンマークビンテージの背丈が1m程の棚。すごく素敵。値段を聞くとミチオさんが出てきた。「この棚はいいんですよ。珍しいですよ。」確かに、デンマークビンテージで小ぶりの棚を見かける事はあまりない。ただ、日本に入ってきていないだけなのかなと思っていたけど、作っている数自体も少なく希少なのだそう。「少しマニアックな話をしてもいいですか?」ミチオさんから次から次へと出てくる面白そうな予感がぷんぷんする話が続いた。棚をつなぎ合わせてる木の拘りや、背面に使ってる木の柄について。例えば無印のように繋ぎ合わせた木では見れない木そのもの柄や、樹齢、木を贅沢に使えた時代の話。何十年も前に丁寧に人の手で作られた家具。私達が所沢から来た事を言うと、隣町の東村山にある宮崎駿さんのご自宅の近くに子供の頃に住んでいたそうで、そこから西所沢のnegomboカレーの話になって「メニューには無いんですけど、山田くんの野菜カレーは本当に美味しいですよ。」って。negomboはRiCEの撮影でもう何年も前に編集の成田さんと撮影に行った店。夏の暑い日だったような気がする。駅で待ち合わせして、喫茶店で少し打ち合わせしてから向かった。ポークビンダルーを撮って、私は肉が苦手なのを知ってか成田さんは撮ったカレーをもりもりとひとりで食べてくれた。あれが所沢だったんだ。まさかその街に住むなんて。人生って本当にわからないもの。
家の色々を買いに寄ったホームセンターとリサイクルショップ。疲れたけど楽しかった。リサイクルショップでは新品のオーブンレンジ1万と無印の扇風機を3000円くらいで購入。中々な破格。こんな買い物の仕方があるんだ。人の動きが激しい東京こそ家具や家電のリユースをもっと活用出来るようになればいいのに。リサイクルショップで買ったオーブンレンジを車まで運ぶ周ちゃん。有り難いな。長いこと何でもひとりでやってきたせいか、なんだか申し訳ない気持ちになったり、かよわい女になったような気分でそわそわした。
今日は外で見る周ちゃんをお腹いっぱいに見た。ひょいっと重い荷物を運ぶ周ちゃん。リサイクルショップのどこにいてもすぐに見つかる背の高い周ちゃん。メガネをかけて運転する周ちゃんもなかなか良かった。耳にかかる少し茶色い髪や筋肉が程よくついた腕が色っぽくて堪らない。ホームセンターで工具を真剣に探してる周ちゃんもいい。あ、イケメン。ホームセンターで遠くにイケた男を発掘気分。あっちこっちでニヤニヤしてる私を見かけては「何かいい事あった?」何度も聞いてくる周ちゃん。「なんもないよ。」と同じ言葉を何度も返した。
帰りの車中で周ちゃんに聞いた。「無性にこてっちゃんが食べたくなる日ってあるよね?」「うん、あるある。」夕飯はこてっちゃんと春巻。

朝から晩まで今日も片付け。天気は台風みたいで風が強かった。梃子の散歩の途中で周ちゃんがミモザをとってくれた。背が高い男はいい。
周ちゃんは朝一番で東京の本社へ自転車で向かった。私はデスク仕事と今日も片付け。朝の梃子の散歩は今日も新しいコースにした。周ちゃんがいないからか梃子が山を怖がってるみたいで途中何度も歩くのを拒む。山の周りに大きな家がいくつか見えた。どれもこれも個性的で素敵。見てるだけで楽しいな。
帰宅して少しデスクに向かう。時間は午前10時頃。さっき朝食をとったばかりなのに何だかお腹が空いた。昨晩の夕飯の残り物、周ちゃんが作ったお好み焼きを冷蔵庫から出して一口だけ。「昔、貧乏だった時によく作ってて、今でも時々作るんだよ。」家に行った時にお好み焼きのソースを見つけて聞いた。「今度作って!」あれから数ヶ月、ようやく願いが叶った。材料はシンプル。小麦粉、卵、キャベツ、豚肉、チーズ、ソース、鰹節。私が食べたお好み焼きの中で一番美味しかった。仮にも一度は関西人と結婚した筈だったんだけどな。その人と食べたのはソースがベッタリとした濃い味のお好み焼きでビールで喉を流し込むにはピッタリだけど、熱々の中味に関しては美味しいのか美味しくないのかよくわからなかった。周ちゃんのお好み焼きはソースとマヨネーズは少し。一見重そうだけど、ふわっとしてて野菜も沢山入ってる感じが美味しい。すごくシンプルで何枚も食べれる感じ。周ちゃんに残して置く筈だったのに気づいたらペロッと食べてた。ああ、どうしよう。けど、甘くてすっごく美味しかったな。
午後は駅前の無印に買い出しと役所へ転入届と色々の手続きをしに行った。初めて駅まで歩いてみた。google mapだと20分。途中何度か迷って到着。買い物を済ませて役所へ。周ちゃんは遅刻してやってきた。私がきっと怖い顔をしてたんだろう。「よしみ、ごめん!書類の確認の電話があって。」初めてあんな真剣な顔を見た。私が不機嫌だったのは17時に終わる役所で、私は世帯主である周ちゃんが来ないと手銃きが出来なかったから。周ちゃんと違って私には手続きする色々が待っていた。
女性が結婚を機に名前を変える事がどれだけ大変なのかって事を敢えて何度も伝えてる。マイナンバーカード、国民健康保険、クレジット、銀行、生命保険。大変なのは手続きの話だけじゃない、もう一つの何かを作るって事。そして作ったからにはそれを担い責任を持つ事も意味してる。新しい姓に私の全てを預けるつもりは無くても、もう一つの熊谷って名前の私が始まる事は多くの犠牲をこれから払っていく事にもなる。編プロを営んでる北井くんが ”四つの顔を持つ女!” とフェイスブックのメッセンジャーで冗談交じりに投げてきたけど、確かにそうだねって思った。また同じリスクを伴う結婚を選んだのは私が馬鹿だからじゃない。法律の制度として生活しやすくする為に受け入れる事に決めただけ。生活は人生を作っていると思うし、生活を大切にしたいから、そうした方がいいと考えて決めた。
5分くらい気持ちが落ち着かなかったから黙ってた。別に怒ってない。だけど、無理に話さなくてもいいや。話したくなったら話そう。不意に何かを聞いたら周ちゃんが閉じてた口を開けた。「クラフトビール買ってきたんだよ。」ミュージアムで今だけ売ってるビールを買ってきてくれたのだそう。可愛いパッケージ。川越の街並みがパステルカラーで描かれたCOEDOビール。原材料を見ると柚子の表記。美味しそう。昨日も出先でクラフトビールを買ってきてくれた。夕飯の支度でバタバタしてたけど、今更ながら嬉しい事だなって思った。周ちゃんは家じゃない何処かで私を思い出してくれたんだ。これ一緒に食べたいな。これ似合うかな。これ見たら喜ぶかな。遠くにいる愛する人を想像する時間は楽しいし、想う事はどうしてなのか幸せな気分になる。
昨年に通ってたオンラインの心理学のコースで学んでいたセルフコンパッション。アメリカの心理学者クリスティーンネフの本で読んで興味を持ったことの一つ。人間は愛情は注ぐ事で幸福を受け取れる。相手に注いだ筈の愛情が自分を癒し幸せにしていく。生活の中でも覚えのある行為だと思う。誰かを想う事は幸せ。人間って生き物はよく出来てる。私の解釈だと、自分で作った愛を自らも食べて生きていけるらしい。だから、夫でも恋人でも家族、友達、仕事仲間、沢山、愛を交換すればする程に愛はこの身体や誰かの血や肉をも共に作ってゆく。だから、わたしはあなたを愛してるのだから愛を頂戴。じゃなくて、愛してて幸せだし、愛してくれてありがとうなんじゃないかなと思ってる。
夕飯は役所の前にあった満州餃子という中華屋さんで私は餃子定食とビールを、周ちゃんはうま煮ラーメンを食べた。美味しかったな。今日もありがとう。